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旅日記(2)鉄とチーズケーキ: ニュージャージーとニューヨークの小さな旅

ニューヨークで久しぶりに列車に乗った。
プリンストンまでの出張。そこにある語学研究所での打ち合わせが目的だ。
プリンストンといえば大学都市で有名で、アメリカの知の集積といっても過言ではない。
でも、ニューヨークから現地までの窓辺の光景はそれとは正反対。
よくこの国が、宇宙開発ができるものと思うほど、そこは錆び付いた鉄の世界。
しかも利用している列車ものろのろガタガタ。

ちょっと晴天なのが残念だった。
工場の廃屋や、すすけた大鉄橋、周辺に並ぶ50年以上前に立てられた家々を窓辺から眺めるのは、晴天よりもちょっと暗い日のほうが心が落ち着いてくる。
どうしてだろう。
最近川崎あたりの工場を見学する人が増えているという。一見非人間的な工場街が、なぜ癒しになるのか。ニュージャージにも川崎にも、去り行く20世紀へのノスタルジーを感じるからだろうか。

50年代、このあたりの工場は、労働者が汗を流して働いて、腕っ節の強そうな男達が巨大なダンプで物資を運搬し、街角の駄菓子屋には、ブルックリンにあった野球チーム、ジャイアンツの選手のカードを集める子供ががやがやしていたのだろう。
マフィアもいて、労働組合の争議もあった。
人々は汗臭く、残酷で、率直で、そして常に笑い、怒り、体を動かしていた。移民が仕事をめぐって睨み合うかと思うと、一緒に酒場で語らっていた。
工場からは煙がもくもくとあがり、石炭の臭いが充満し、滑車や歯車は油でべたべたしていたはずだ。生きる行為そのものが工場にあったはずだ。
シリコンバレーには、四角い箱形の工場しかない。油の臭いも、錆びた鉄のクレーンもない。汗まみれのオヤジたちも、もちろんいない。皆首から身分証明書をぶら下げて、清潔に、知的に働いている。
だから、皆あの当時が懐かしくなるのかもしれない。

ニューヨークからニュージャージーを南下する列車の周辺は、そんな鉄の構造物の展示場といっても差し支えない。
昔の繁栄は影もなく、そこで働いていた人々は、いまやおじいちゃん達となる。窓は半分割れ、トタンが剥がれて鉄の躯体があちこち露出したまま、建物は放置されている。
その周りには、20世紀のアメリカ黄金期に建造された、橋などのインフラが今でも使用されている。皆いつ朽ちてしまうのかと恐れながら、それでもちゃんと役割を果たしている。

午後、ニューヨークに戻り、時間があったので、MOMA (近代美術館) に。
そこには、近現代の絵画、彫刻、そして写真が展示される。今日二度目の旅である。
50年代から60年代の写真、そしてキリコなどの煙をはく煙突の絵にも、鉄骨や工場は登場する。
20世紀の人にとっては、鉄の建造物は繁栄の象徴でありながらも、時には人を疎外する怪物でもあった。アーティスト達も、鉄を友人にしようか、人間性を破壊する象徴にしようか逡巡していたことが、作品をみるとよくわかる。
でも、やたら建物の間の空間が印象的なキリコの絵をみて、ちょっと心が落ち着くような気分になるとき、あのニュージャージーの光景が蘇る。

鉄へのノスタルジー。あのトタン屋根を叩く冷たい雨の音。次になぜか鉄人28号を思い出しながら、美術館をあとにする。
街のざわめきが、いきなり体を包み、少し夕方が近くなり、小腹がすいた。
人気のない長い冷たいカウンターが懐かしく、53丁目を5番街から少し東にはいったところにあるバーガーヘブンへ。
ここは、チーズバーガーがとびきり美味い。真ん前に、大手で老舗の出版社があり、その関係で出版関連の人がよく利用する。
チップが多くでるので、店員が年をとっても勤務している。もう、30年近く知っている黒人のおじさんは、でも、今日はいなかった。
チーズバーガーはちょっと重たいので、実に久しぶりに、カウンターのケースにはいったニューヨーク・チーズケーキをコーヒーと共に注文。
この味は、20世紀も今も変わらない。

既にラッシュアワーの時間。
鉄といえば、イーストリバーにかかる鉄橋、クイーンズボローの側を満員の地下鉄がのろのろと地上にでてきているはずだ。鉄橋の脇を、車輪をきしませ、大きなカーブでは線路に車輪をこすらせ、金切り声をあげながら。

明日は霙 (みぞれ)。正に雲の下にくすむであろう、あの殺伐としたニュージャージーの廃屋街。
それを心に留めながら、私はというと、サンフランシスコへの機上の人となる。

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