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トルコとボスニアを旅して世界の混沌を考える

【CNN より】

Hungarian PM said to ship out illegal migrants. FM said I understand that European is in angry.

ハンガリーの首相は不法移民の送還を表明。外務大臣はヨーロッパは怒りの中にいると言及

ウィーンから飛行機でイスタンブールに向かう機内、夕暮れ時の空の下に一本の大河をみつけました。ドナウ川です。ちょうどハンガリーの上空だなと思いました。飛行機の窓の下、地上ではシリアからの移民への対応に苦慮するハンガリーの決断がEU内で波紋をよんでいます。

ウィーンとイスタンブールを結ぶこの線上に、19世紀から20世紀にかけておきたことが、今の中東の混乱の原点であったことを知る人はそう多くはありません。「東方問題」という言葉がありました。19世紀にイギリスやフランスが、バルカン半島での民族紛争につけた呼称です。

ウィーンに着く前、私はクロアチアの古都ドブロブニクから車を借りてボスニアの首都サラエボに向かいました。クロアチアから国境を越え、ボスニアに入ったとたんにモスクが目立ってきます。このあたりは、東ヨーロッパにあって今でもイスラム教徒の多く住む地域なのです。

17世紀、イスラム教の大国オスマントルコは、東から西欧世界を圧迫していました。ウィーンを包囲し、宗教改革で分断されたキリスト教社会に挑みかかりました。ボスニアなどのあるバルカン半島は、オスマントルコの支配地だったのです。その後、ヨーロッパには宗教改革の分断を乗り越えて、いくつもの国民国家が登場しました。そしてイギリスでの清教徒革命や、フランス革命を経て市民が政治の表舞台に登場し、そのパワーが産業革命をおこしました。

こうして力関係が逆転したことで、オスマントルコは西欧列強、そして北からはロシアの脅威に晒されるようになりました。巨大な国家が弱体化したとき、その支配地域では民族運動がおこります。バルカン半島ではイスラム教徒に支配されていた人々が独立運動をおこし、その活動をロシアが支援。するとロシアの影響力を削ごうと、イギリスやフランスが介入します。

一方で、長年オスマントルコと対峙していた東ヨーロッパの支配者オーストリア帝国も、フランス革命の後の西欧の近代化の波のなかで、相対的に力を削がれていました。傘下のドイツでも新たな統一ドイツを建設する動きがあり、長年影響力を維持してきたイタリアでも民族運動が勃発しました。

ウィーンとイスタンブールを結ぶ線上で、二つの帝国が衰亡をはじめ、その余波が世界にその後 100年以上に及ぶ緊張と不安定の連鎖をもたらしました。

オスマントルコの支配していた中東各地も例外ではありません。中東のアラブ人が独立運動をおこし、それをイギリスなどが支援します。一方で、ロシアでは、民族主義が高揚するなか、大規模なユダヤ人迫害運動がおき、オスマントルコでもアルメニア人への組織的弾圧が頻発します。抑圧された人々が逃れた場所。それがアメリカでした。そして、エルサレムにも難民が流入します。

この複雑な国際関係が、20世紀の二つの世界大戦につながります。アラブ民族の自立と、ユダヤ系の人々の入植運動の双方が中東でおこり、それをイギリスが巧みに利用し第一次世界大戦をきりぬけます。大戦を前後して、オスマントルコも、オーストリア帝国も消滅しました。そして第2次世界大戦でドイツがユダヤ人の大量虐殺を行うと、避難民はパレスチナへと移動します。

その結果、戦後になってイスラエルが建国すると、土地を奪われたアラブ人が難民となり、以後現在まで憎しみと報復の連鎖が続きました。混乱にアメリカやソ連などが介入し、イスラム社会の複雑な糸は縺れ、よじれました。

一方、冷戦が終結したあと、バルカン半島では長年くすぶっていたキリスト教系住民とイスラム教系住民の対立が戦争へと発展し、大量のイスラム系住民の虐殺事件も発生しました。サラエボへの途上に立ち寄ったモスタルの墓地。そこの墓標に刻まれた日付は全て 1993年でした。あの第一次世界大戦の引き金となったオーストリア帝国の皇太子暗殺事件がおきたサラエボですが、そこはイスラム文化とキリスト教文化とが交錯する美しい都市です。そんなサラエボも、20世紀末には一時徹底的に破壊されました。

今、バルカン半島での戦争は一部を除いて収束に向かっています。しかし、中東では未だにオスマントルコの衰亡期以来の縺れた糸を解けずにいます。そして、新たな憎しみが、過去の糸の縺れそのものを風化させ、短絡的なナショナリズム、そしてイスラム原理主義を生み出しています。

イスタンブールにある巨大なモスク。ミナレット (モスクの塔) からは定期的に礼拝を呼びかけるアザーンが流れます。この町は、以前東ローマ帝国の首都でした。しかし、1453年にオスマントルコが占領し、イスラム帝国の首都となりました。

現在のトルコの首相のエルドランはイスタンブールの出身。イスラム教国としてのトルコの復権を目指す保守派の急先鋒です。そのビジョンを新オスマン主義と呼ぶ人も多いのです。

オスマントルコの衰亡から現在まで、歴史は何度も惨禍を繰り返しました。シリアからの難民問題と ISIS によるテロの脅威にハンガリーのみならず、欧米社会が揺れています。19世紀からの縺れた紐を改めてじっくりと見つめる必要があるのではないでしょうか。

山久瀬洋二・画

「世界情勢に翻弄されて」山久瀬洋二・画

「世界情勢に翻弄されて」山久瀬洋二・画

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