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日韓関係などにみる:各論の応酬が、負のスパイラルを加速させる

「おい、先週、なんで人の前で俺の顔を潰すような発言をしたんだ」

「何だって?あの時俺のことを蔑むように笑ったのはあんたじゃないか。だから僕は戸惑ったんだ。そもそも君がいけなかったんだ」

「蔑むって?だって、君だって僕を無視するように自分のことばかり喋っていたじゃないか」

「そりゃ、あんたの対応が本気なように思えなかったから、お客にちゃんと対応しようとして色々喋ったんだ。だって先月の顧客との会合だって、ドタキャンしたじゃないか」

「そんな言い方はないよ。無責任な言い方だ。そもそも、あれはドタキャンではない。あんたがいかにも来て欲しくなさそうなので、遠慮しただけだ」

「そんな風に人を信用していないお前こそ、無責任なもんだ」

「あんたこそ。そもそもそんなに俺の事が嫌いなら、俺と仕事なんてしなければいいじゃないか」

「ばかばかしい、私情を仕事に交えて話をするなんて、子供っぽすぎる」

「子供っぽすぎるって?俺はあんたのそんな傲慢な態度が許せないんだ」

いやな会話ですね。
でも、この会話をしっかり分析してみると、そこに人と人との行き違いのスパイラルがみえてきます。
最初に問題となったのは、一つの行為です。つまり相手の「顔をつぶすような発言」に対するクレームが喧嘩の発端です。
その行為に対して、相手はクレームを言った人の別の行為に対してクレームをつけます。つまり、それは「蔑むように笑った」という行為です。
さらに行為に対するクレームが続きます。「ドタキャンした」と。
そしてそのあたりから、お互いに本音が見えてきます。つまり行為ではなく、相手の性格や人格そのものが気に入らないという応酬が続くのです。

これは人と人とが対立するときによくある会話の流れです。
ここまであからさまではない場合も、心の中ではこうした気持ちの応酬が続いています。
例えば、日韓での政治問題などは、こうした非難のスパイラルから、相手に対する嫌悪が吹き出し、最終的にはお互いに上げた拳が下げられなくなっているようです。
人は、何か特定の行為を批判するときには、必ず相手へそれ以上に言いたい本音をもっています。つまり会話の最初から、相手への憎しみを表明するために、特定の行為を上げて話を切り出すことが多いのです。
しかも、その行為に形容詞がつけば、それは相手への自分の憶測が混じっていることになります。最初の発言の「俺の顔を潰すような発言」の事例では、「俺の顔を潰すような」というのが憶測にあたるわけです。

この会話のように、各論で相手の非をなじれば、相手も各論で応酬します。
そして、その各論に憶測が加わることで、さらに応酬は激しくなり、その結果、最後はみにくい感情の応酬へと陥ってゆきます。
対立を解消するためには、各論の応酬へ進まないようぐっと自分を抑える度量が必要です。各論での非難には、各論の原因が必ずあり、一方が各論をいえば、相手は各論の原因となる別の各論をもちだします。このスパイラルがお互いの関係をさらに悪化させます。

もし、その各論が特に重大に思えるときは、一つの各論に絞り込み、各論に対して各論で応酬せず、相手のした行為の理由を相手から聞き出し、インタビューしながら、自分には見えなかった背景を理解し、そこから未来指向で解決に向けて話し合わなければなりません。

この会話の場合、未来志向で解決しなければならない大切な目的は、一緒にビジネスをすすめ、顧客を開発することです。そして、日韓関係でいうならば、戦争のない平和な未来を造り、共に繁栄する道筋をつけることでしょう。

アジアの文化は過去を大切にする文化です。それは伝統を重んじ、温故知新の精神でそこから人と人との紐帯を造る素晴らしい文化です。しかし、その強い文化の裏にある弱点は、過去の各論を応酬させることです。

この負のスパイラルを断ち切るためには、双方に寛容と忍耐を求める意外に方法はありません。寛容と忍耐を産み出すエネルギー源は、未来へのビジョンを共有することによってしか醸成されないはずです。

異文化での軋轢は、文化や歴史の違いによる認識の軋轢がその大きな原因となります。ですから、異文化での各論の応酬はそれがより深刻な結果を招くリスクがつきまといます。
そのことを理解した上で、寛容と忍耐のためのエネルギーを充電する努力をしたいものです。

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