カテゴリー別アーカイブ: Yamakuse Yoji’s World View

「個人主義」を「利己主義」と訳す文化背景とは

©FEE

“Individualism is the principle that the single person is more important than the group and that people should work and own things for their own advantage.”

(Individualism インディビジュアリズムは、集団よりも個人が大切で、その個人が自らの意思に従って、自らの利益を求めて活動するべきだとする価値観を指す)
― Cambridge Dictionary より

文字より「語る」西欧文明の遺伝子

 先週のブログで、アジア、特に日本人が物事を表現するときの修辞法について、古代中国までそのルーツを遡ってみました。
 そこで今週は、欧米流の修辞法について考えてみます。
 
 欧米では表音文字が発達しました。
 それは、物を表現するときに、その形状や意図を描写する形で発展した漢字などとは全く異なる体系です。
 「はじめに言葉ありき」というのは聖書の有名な一節ですが、実際に欧米では長きにわたって、言葉が文字に優先したコミュニケーションのツールでした。
 古代ギリシャで現在のアルファベットの祖先ともいえるギリシャ文字が使われていたころ、人々はアゴラと呼ばれる広場に集まって、都市国家の運営などについて話し合っていました。古代ギリシャ哲学も、こうした環境の中で、対話を通して思索を深めていったのです。その伝統は、のちのローマにも受け継がれます。そもそもローマ自体が、ギリシャと同様の都市国家として誕生していました。
 やがてローマが超大国に成長したとき、その運営に携わった元老院の中でも、同様の議論によって国家の方針が討議されていたのです。語ること、つまりディベートが西欧文明の遺伝子の中に組み込まれていったのです。
 ローマ帝国が超大国として西欧社会に拡大したとき、その遺伝子も各地に拡散していったはずです。
 
 一方、中国では、まずは文字によって物事をしっかりと表現することが政治、そして文明の基本となりました。
 その伝統は、漢字が普遍的な文字として中国世界に広く拡散した古代から、脈々と受け継がれてゆきました。
 元々、中国流の「起承転結法」は、皇帝という絶対的な権力者へのプレゼンテーション技術としては最適でした。権力に対する恐怖を人々がくぐり抜けるとき、自らが言いたいことのポイントを最初に語ることには常にリスクが伴います。遠回しに表現しながら、次第に核心に近づけば、そうしたリスクを軽減しながら提案や諫言を行うことができたはずです。
 
 それに対して、西欧では「語ること」を文字で補足する意識が育てられたのです。
そうした伝統が、長い年月の中で形骸化した時期もありました。中世から近世にかけて、権力に対する恐怖の構造がヨーロッパにもあったからでしょう。
 しかし、ルネサンスを経て、市民階級が育成され、やがて彼らが王権などの絶対的な権力に挑戦してゆく過程の中で、彼らの中に眠っていた「語ること」の遺伝子が活性化されます。
 特に、大西洋を隔てた新大陸において、人々が入植地であたかも古代ギリシャの都市国家のように街をつくり始めていたアメリカでは、その傾向が顕著でした。
 

©SSP

“Individualism”を受け入れられないアジア

 古代ギリシャ以来、効率的に語り、相手を説得するにはどのようなレトリックが有効かという発想のもとで、様々なロジックの構成方法が進化し、それが近代国家の中で急速に成長したのです。イギリスの議会での議論の模様などを見ると、いかにその伝統が彼らの遺伝子に中に組み込まれてきているかが理解できます。
 まず自らが言いたいことをしっかりと表現し、その理由を述べ、次にそれをサポートする実例を列挙し、その上で改めて結論をしっかりと表明する修辞法が、市民革命を経たヨーロッパや北米では、有効的なディベート術として育成されたのです。
 
 それに対して、皇帝が君臨する中国、あるいは日本のように士農工商という身分制度で固められた社会では、ディベートを行うこと自体が不可能でした。
 あくまでも、文字文化に則したレトリックを使い、過去の事例などを挙げて背景から語ることで、権力の脅威に対応するということが常識となっていったのです。それは、時とともに人々の「礼節」という価値観に直結しました。
 身分制度という枠の中で、相手をいかに立てながら自らの意思を伝達するかという修辞法が、社会を運営するための礼儀作法となり、人々の心の中に根強い価値観として定着していったのです。
 
 例えば、日本人は立場が上の人の発言に対して、最初から反論することを嫌います。また、自らの意見や好悪をはっきりと表明する人を「身勝手な」、あるいは「自己中心的な」人と認識して、受け入れません。
 それは、「カニの横這い」のようなもので、表向きはどんどん意見を表明してほしいと言っている人でも、実際に欧米流で単刀直入に切り込まれるとムッとするケースが多いはずです。
 
 欧米のディベート文化で培われた「自己や自我を大切にする」という発想法を端的にサポートしている価値観は、インディビジュアリズム “Individualism”です。
 この単語にはほとんどネガティブな意味合いはなく、アメリカ人などにとっては最も大切にする価値観です。しかし、この単語を日本人が英和辞典を作る過程で翻訳したとき、そこに「個人主義」という意味と共に「利己主義」という訳を加えました。面白いことに、アメリカやヨーロッパの辞書には Individualism を selfishness と同義で扱う辞書はまずありません。いかに欧米流の語り方が、日本などアジアの国々で不協和音となっていたかが想像できます。
 
 ここで忘れてはならないことは、ディベートに依拠する欧米のコミュニケーション文化の基本にある《「言葉」は「心」とは異なる 》という発想です。
 言い換えれば、言葉はあくまでも人にロジックを伝達するためのツールであり、相手とディベートをするときは、そのことによって相手の心を攻撃しているのではないという暗黙の了解があるのです。この了解を踏襲すれば、たとえどんなに激しい議論をしたとしても、個人と個人とが傷つけ合うことはないのです。
 しかし、この発想はアジアではなかなか受け入れられません。はっきりと反対意見を言われれば、礼節を逸し、相手を攻撃していると受け取られるのです。攻撃されたと思う相手は面子を保つために、その攻撃に対して厳しい拒否反応を示します。
 
 そして最近では、欧米流にはっきりと物事を表現しなければと考えた人が、このロジックの背景にある「ツール」として言葉を使うという了解を知らずに、強い言葉で自己を表現することがはっきりとものを言うことだと誤解することもあるようです。
 

 古代ギリシャと古代中国。2000年以上前に分岐したこのコミュニケーション術の相違が、異文化での最も深刻な行き違いの原因になっていることに気づいている人はまだまだ少ないようです。
 

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だれでも30秒は英語を話せます!

『英語を30秒話しつづけることができるようになる1ヵ月集中トレーニング』ファン・ソユン(著)キム・テユン(監修)英語を30秒話しつづけることができるようになる1ヵ月集中トレーニング』ファン・ソユン(著)キム・テユン(監修)

母国語は、一番近くにいる人の言葉を繰り返し聞いて、ものと状況を目で見て体験しながら自然に身に付けていきます。このことは英語を学ぶ時も同じです。できる限り文字を見ずに、イメージを見たり、思い浮かべたりしながら音を聴くことを中心にトレーニングしていく必要があります。本書は、英語の語順や表現をイメージと音に集中しながら繰り返しトレーニングすることで頻出表現を頭の中に確実に定着させる《インプット》パートと、インプットした表現を自在に組み合わせて長く話すためのトレーニングを行う《アウトプット》パートで構成。30日間のトレーニングで誰でも英語が話せるようになるスピーキング入門プログラムです。

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日常表現の向こうに見えるミレニアムの背景

“The Japanese communication pattern is very indirect and far less verbose than what the English-speaking West is familiar with.”

(日本人のコミュニーション方法は、英語を話す欧米人から見れば、極めて間接的で言語表現に頼らないものだ)
― Cultural Atlasより

事例:親子の会話と会議での会話

「ママ、なんかお腹が痛い」
「どうしたの。熱は?」
「うーん、わかんない」
「そう、お医者さんに診てもらう?」
「そこまでではないけど。でもちょっとだるい」
「学校はどうするの?」
「今日は無理かも」

 こんな会話を、子供の頃に経験した人は多いのではないでしょうか。
 この子が母親に言いたいことは、「今日は学校に行きたくない」ということですね。多くの日本人には、即座に子供の意図が伝わるはずです。もしかすると、その日学校でテストがあるので、行きたくない言い訳をしたのかもしれません。
 
 これを大人の会話に置き換えましょう。
 

「いえね。今回の提案はどうしましょうか」
「と言いますと?」
「なにせ、コストもかかりますしね」
「アウトソースせずに社内でやってみればどうでしょう?」
「いやあ、皆今のプロジェクトに大忙しで・・」
「では、今回の彼らの提案は見送りますか」
「そうですね。そうしてもらえれば助かります」

 子供と母親との会話と、大人になって会議で行うときの会話と、どれも最後に本音が出てくるロジックの作り方は同じです。
 つまり、日本人の会話の方法は、まず取っ掛かりとなる一つのファクトから始まり、それをやり取りしながら本音や結論へと導いてゆくケースが多いのです。二つの例からお分かりのように、これは日本人が幼い頃から大人になるまで、親から子供へと伝搬されてきたロジックの修辞法なのです。
 実は、このたわいもない会話の進め方のルーツが、なんと1400年も前から日本人に脈々と受け継がれ、思考方法や表現方法のルールとして育成されてきたということを考えてみたことはあるでしょうか。
 

1400年受け継がれてきた日本流「起承転結」

 ここで、1400年近く前の中国に目を向けてみます。
 当時、中国はの時代の始まりでした。二代皇帝・李世民が、それまで短命な政権が入れ替わり立ち替わり交錯していた中国を唐の元に統一し、中国の文化が周辺民族にも伝搬されてゆきました。
 そんな中国では、歴代皇帝の政策を書記官たちが記録し、その記録の客観性を保つために、皇帝といえどもその内容を簡単には閲覧できなかったといいます。それは、皇帝が権力を乱用して記録の客観性に影響を与えることを防ぐための制度だったといわれています。
 特に、唐になって中国が内政外交ともに安定すると、書記官は記録の腕を磨くために、文章の綴り方や書体などを整えます。そこで培われた修辞法は、宮廷に仕える官僚たちに大きな影響を与えてゆくことになったのです。それ以降、文官が中国の漢字文化の担い手になってゆくのです。
 
 彼らは時には文章家として、時には詩人として、唐詩選などに残る多くの詩文を残しました。彼らが最も美しいとした修辞法が、まず取っ掛かりの事例を述べ、それをしっかりと補足し、さらにサイドから別の事例で補強し、最後にその土台の上に結論を述べるという、「起承転結法」だったのです。
 官僚の文章のみならず、皇帝を諌めるときなどのレトリックの作り方、さらには五言絶句などの詩作にも、この方法が用いられたのです。それは時代を超えて現代まで伝搬され、実は、習近平国家主席の演説にもこの影響が見て取れます。
 
 そんな唐の時代に、日本からは頻繁に遣唐使が中国に派遣され、中国の文化を吸収しては日本に持ち帰りました。そして、この中国の宮廷での書類の作成技術や表現方法、修辞法が日本に伝わり、知識人や権力者の間で活用されたのです。それが時とともに、日本の風土の中でさらに独自に培養されたのが、現代の日本人のコミュニケーションスタイルとなったのです。
 
 では、古代中国での修辞法を代表する有名な漢詩を事例として紹介しましょう。
 

春眠暁を覚えず
(春の夜は短い上に寝心地がよく、夜明けを忘れるくらいぐっすりと眠りこんでしまった)
諸所に啼鳥を聞く
(ああ、あちこちで鳥が冴えずっているようだ)
夜来風雨の声
(昨晩は風や雨の音がして嵐のようだった)
花落つること知んぬ多少ぞ
(花はどれくらい散ってしまっただろうか)

 
 孟浩然という唐の詩人のこの作品を、高校で習ったなと思い出す人も多いでしょう。この詩で言いたいことは、寝坊したことでも、鳥が鳴いていることでも、夜の嵐でもありません。春の嵐で花が散ったのではないだろうかという思いを表現するために、こうしたレトリックを使ったのです。これは冒頭に紹介した子供と母親との会話、さらには社会人の会話事例と全く同じレトリックなのです。
 

欧米流「結論ファースト」とうまく使い分けて

 中国に起因するこのアジア型の表現方法が、結論を先に言う欧米の表現方法と異なることから、様々な誤解が生まれることは、すでに何度かこちらのブログでも紹介しました。冒頭で紹介した英文では、そんな日本型の表現が間接的で言葉少なに見えると記しています。その論文では中国に対しても、日本とレトリックの類似点があるように指摘されています。しかし、我々が知らず知らずの間にこうした表現をする癖がある背景に、1400年もの意識の積み重ねがあることに気付くことはあまりないでしょう。
 
 コミュニケーション文化の違いが世界に存在し、ここで紹介したように、それぞれの遠い昔の文化をルーツとして形成されてきたわけですから、そこで起こる誤解は、よほど注意深く対処しなければ解けないのです。
 
 しかも、そうした日本型のコミュニケーションスタイルがまどろっこしいということで、欧米流のレトリックを取り入れようとする動きを考えるとき、1400年以上の重い石をいきなり砕くことの危険性をも感じてしまいます。
 文化は良し悪しの問題ではなく、お互いに異なることはごく当然のことなのです。むしろ、欧米の人と交流するときは、彼らのロジックを考慮し、日本人同士、あるいはアジアの人同士での交流のときは、古来のレトリックを使用する、というスキルの使い分けが必要なのです。
 
 この使い分ける技術を無視して、自らのコミュニケーションスタイルを否定すると、それは思わぬ消化不良と反作用を生み出し、自身のアイデンティティ・クライシスへと繋がってゆくはずです。
 この課題は、次の機会にさらに分析してみたいと思います。
 

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中国語を学ぶのに、英語を使わない手はない!

『中国語は英語と比べて学ぼう!初級編』船田秀佳 (著)中国語は英語と比べて学ぼう!初級編』船田秀佳 (著)

SVO型で似ていると言われる2大言語、「英語」と「中国語」。本書では、英語と中国語の厳選した 80の比較項目から、似ている点と違う点に注目し、ただ英語と中国語の羅列や併記をするのではなく、しっかりと比較しながら学べるようになっています。中学·高校でせっかく学んだ英語の知識を活用し、日本語·英語、そして中国語の3カ国語トライリンガルを目指しましょう!

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異文化のプリズムが日本人の世論に与える影響とは

“Culture determines what is acceptable or unacceptable, important or unimportant, right or wrong, workable or unworkable.”

(文化は人々が受け入れられる事柄とそうでない事柄、重要と思うこととそうとは思わないこと、正しいかどうか、機能するかどうかといった事柄への枠組みを規定する)
― Web Finance on-line business dictionary より

報道に反射する異文化のプリズム

 よく異文化のプリズムについて考えます。
 世界には様々な文化がありますが、例えばアメリカに一歩入れば、好むと好まざるとにかかわらず、アメリカの文化に適応しなければビジネスでも生活でもうまくいきません。それはアメリカに限らず、世界中どこに行っても同様です。
 よく日本に来た海外の人が日本のことを異常に賞賛したり、逆に不適応をおこして批判的になったりすることがあります。これも多くはそうした文化の違いに起因した錯誤によるものです。
 マスコミの報道でも同様です。特に、多くのマスコミの経営は視聴率や広告収入に左右されます。マスコミがその国の中で営業を続けるために、その国の文化に即した価値観や発想法の影響を受けるのは当然です。
 したがって、日本のマスコミは、日本人の常識と、日本人に心地よい報道に傾斜する傾向があるのです。当然それは世界のどの地域でも起こり得ることなのですが。
 

監視カメラの設置に割れる意見

 先日、ある会合で面白い実験をしてみました。
 それは、海外経験の豊富な人と、そうでない人が集まった会合でした。また、そこには日本在住の欧米の人も加わっていました。日本に住む欧米の人にとって日本は海外ですので、彼らも海外経験が豊富なカテゴリーに含まれるといっても差し支えありません。
 実験は参加者に共通のテーマを渡し、それに賛成か反対かを問いかけました。
 テーマは、「凶悪犯罪を抑制するために街のあちこちに監視カメラを置くことについてどう思うか」というものです。すると、実に興味深い反応がありました。
 海外経験の少ない日本人10名は、全員が監視カメラの設置を支持し、そのことによって犯罪が抑制されるのは良いことだと答えたのです。
 それに対して、海外経験のある人の9割は、欧米の人も含めて、カメラの設置に対して慎重であるべきだという答えが戻ってきたのです。理由は、個人が常に監視されていることへの恐怖と、そうした監視体制を権力者側が独占することへの懸念でした。
 
 ここ数年、凶悪犯罪で被疑者が検挙されて報道されるとき、監視カメラの映像が頻繁に公開されていることに気づいた人は多いはずです。日本人の支持者に問いかけると、そうした報道の影響が監視カメラ設置支持の判断に繋がっていることもわかってきました。
 ここで、カルロス・ゴーン氏が逮捕されて以来、被疑者が長時間拘束される日本の司法制度のあり方についても、海外から多くの疑問が投げかけられたことを思い出したいのです。監視カメラを証拠に逮捕された被疑者が拘束され、一方的に証拠を突きつけられ、長時間にわたって尋問される状況は、多くの民主主義国から見れば異常なのです。
 
 会合には、ドイツから日本にやってきて8年になる人がいました。彼はドイツで司法関係の仕事に従事していたため、私は敢えて監視カメラを設置することへの懸念をどうして抱いているのか問いかけました。彼はドイツにも監視カメラは様々な場所に設置されている事実を伝えた上で、それでも個人をそのように監視することが人権の侵害にならないかどうか世論が割れているとコメントします。そして、海外経験の少ない日本人の全てが同じ反応をしたことに驚きながらも、日本でのそうした反応も予想できたというのです。
 そのコメントを受けて、日本在住のアメリカ人は、日本の教育とマスコミのあり方について指摘します。日本人が文化的に多様な人々を受け入れることに慣れていないことから、人権への意識が希薄なだけでなく、人と異なる意見を持つことへの躊躇が社会全体にあることを彼は強調したのです。
 

「正解」を求めて錯誤する日本社会と教育

 日本では、常に何が正解かを求めることが教育だという意識が濃厚です。そして正解は権威者が決定します。ですから、何かのテーマについて自分はこう思うと考えたとき、日本では自分の回答が正解かどうか常に心配し、他の人の意見と同じであれば、あるいは権威ある人が何かを言えば、それが正解であるかのように錯覚する傾向がないでしょうか。
 さらに、自分とは異なる意見を持つ人がいた場合、その人はどう反論するだろうという想定を持って物事を考える習慣も希薄です。ですから、マスコミでの報道でも賛否両論を視聴者の前で激しく戦わせるニュース報道は稀にしかなく、ほとんどがキャスターのコメントか識者の解説に終始しています。つまり物事には多面的な判断基準があるということを意識し、思考する習慣がないのです。
 
 歴史や環境など、様々な背景が人の判断基準や価値観、さらにはコミュニケーションスタイルを作ってゆきます。そうした事柄の集大成がその国や地域の文化となるのです。そして、そうした文化が作り出すものの中には、教育制度や教育の方法、報道姿勢、政治への関わり方など様々なものが含まれます。外からの情報は、これらのフィルターを通ってあたかもプリズムを通したように変化しながらそれぞれの文化の中に吸収され、人々に伝えられるのです。この文化のプリズムを通した情報によって、多くの人は物事を判断し、世論が構成されることになります。このプロセスを客観的に外から見ることができない限り、自らの国の文化の脆弱な側面を認知し、自らの文化の枠の外に自分を置いて思考することができないのです。
 
 本来インターネットなどが発達すると、こうした文化のプリズムを超えた様々な発想が流通し、人々がより世界的な視野を持つようになるはずでした。しかし実際には、ネットは自らの価値観や趣向に合う情報を収集するためだけに使用される傾向が強く、それによって、より文化のプリズムの洗礼を受け、そのこと自体を疑問視できない人々が増えているようです。これは皮肉なことです。
 

 何かを考えたとき、自らの考えと異なる考えを持った人はどう反論してくるだろうかと想定する教育を促進するため、アメリカなどではディベートが教育現場に頻繁に導入されます。賛成側と反対側に分かれて、生徒が意見を戦わせることで、異なる価値観への理解を促進するのがディベートの目的の一つなのです。
 日本の教育が、教師や教育機関を「上」と想定し、生徒や学生への一方通行の授業方式に終始せず、双方向の議論を可能にする教育へと進化する必要性が求められているのです。
 

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『英語の格言に学ぶグローバルビジネス』山久瀬洋二、アンドリュー・ロビンス (共著)英語の格言に学ぶグローバルビジネス』山久瀬洋二、アンドリュー・ロビンス (共著)
名言・格言から学ぶ、「ひらめき」を成功に導くグローバルビジネスの「発想法」
欧米の人がビジネスをする上で好む名言や格言。これを理解すれば、彼らのビジネスシーンでの物事の考え方、仕事のプロセスの背景が見えてきます。
「グループ志向で組織の構造を重んじる日本、個人のイニシアチブが評価される欧米」など、日本人がしばしば困惑してしまう“ 異なるビジネス文化” や、“ビジネスの進め方と発想法の違い”などについて、彼らが好む名言・格言から理解を深めることができる1冊です。

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「絶滅危惧価値」を抱き戸惑う日本人の未来とは

“Japan-isolated itself from the rest of the planet for some two hundred and fifty years, has had a change to incubate its value system and develop enduring and idiosyncratic forms. When modernism finally came, ‘Japaneseness’ was not swept away but became absorbed into modern life, making Japan’s modern life at once strange and familiar to us.”

(日本は250年にわたって世界から孤立し、自らの強靭で特異な価値観を育んできた。その後日本がついに近代化の波に晒されたときでも、「日本人であること」は抹消されず、それらは社会の中に吸収され、我々にとっては奇妙でありながらも馴染みのある日本の現代社会ができあがったのだ)
Japanesenessより(Stone Bridge Press,英文は一部省略)

日本の近代化をもたらした分業とTacit Knowledge

 日本人の価値観が大きく変化しようとしています。
 そんなことを考えるために、まずは江戸時代に時計の針を戻しましょう。
 江戸時代はある意味で、日本の近代化の礎となった時代でした。
 多くの人は、江戸時代の日本は鎖国をした閉鎖的な封建社会であったと思っています。それは一面では事実です。確かに、江戸時代には厳しい身分制度があり、人々は移動の自由も職業選択の自由も厳しく制限されていました。代々家業を継ぐことは当たり前で、例外はあったものの、武士の子は武士に、町人の子は町人に、ということが当然とされた時代でもありました。
 しかし、このことが日本の近代化に思わぬ恩恵をもたらしたことに気付いている人はあまり多くありません。
 実は、身分によって職業が分けられ、その職業も代々親から子に引き継がれていた江戸時代であればこそ、極めて高度な手工業の技術が世代から世代へと引き継がれることが可能だったのです。
 
 しかも、江戸時代には職業はすでに細分化され、社会は分業によって成り立っていました。
 楊枝や馬の蹄鉄、さらには桶から茶碗まで、一つ一つの製品が代々受け継がれた専門職人によって製造され、流通していたのです。こうした専業化による技術は、文章化や数値化されることなく世代から世代へと引き継がれ、時とともに進化も遂げます。こうした「文章化されずに受け継がれる繊細な知識」のことを Tacit Knowledge と言います。
 海外との交流が極度に制限されていたとはいえ、江戸などの大都会はそれなりの競争社会でした。より洗練された商品が売買され、その要求に沿って職人も腕を磨いたのです。流行もあれば、厳しい淘汰もありました。こうした環境にもまれ、Tacit Knowledge はまさに匠の領域へと成長していったのでした。
 ある裕福な商家が、両替商を営み小判を扱うために、親は子供に純金を混ぜたものしか触らせなかったという逸話が残っています。子供が成長したとき、小判を触っただけでそれが本物かどうかを見分けることができるようにするためでした。親から子供に伝えられたこの感触こそ、数値化できない Tacit Knowledge だったのです。
 
 こうして受け継がれた日本人の器用さ、洗練を求める感覚が、明治以降日本が近代化の道を歩み始めたときに、その発展に極めて大きな役割を果たしたのです。
 「加減」という言葉があります。この言葉はお茶の熱さを示すときなどに使われます。お茶は熱すぎても、ぬるすぎても風味を損なうため、そこそこの加減が必要なわけです。この加減を極限まで突き詰めたとき、例えば自動車のエンジンに使われるピストンの「あそび」や、楽器での微妙な空気の抜け具合などといった最適な加減を極めることができるわけです。日本の近代から現代までの産業を牽引してきた無数の下請け工場では、こうした究極の加減を極めた職人が新幹線や自動車の部品を作ったり、精密機械の組み立てを行ったりしてきたのでした。
 そして、このようにして伝承され、阿吽の呼吸で制作された商品は、世界に認められ、戦後の日本経済の発展をさらに支えることになったわけです。
 

始まった暗黙知の崩壊とアイデンティティー・クライシス

 そんな Tacit Knowledge の崩壊が始まったのは、バブル経済とその破綻の時代でした。バブル経済の波に乗って拝金主義がはびこることで、多くの職人の子孫は家業を横においたまま、不動産に投資しました。そしてバブルがはじけたあと、金融機関の資金回収によって、町工場の多くは閉鎖に追い込まれ、その空き地は駐車場やコンビニへと変化しました。
 そしてわずかに生き残った Tacit Knowledge も、デジタル化によってグローバルに通用する数値化を余儀なくされ、次第に滅んでゆこうとしています。AI技術の進歩により、そうした繊細な技術自体も不要になろうとしています。日本人が何世代にもわたって培ってきた暗黙の知識が絶滅し始めているのです。
 
 このことは、思わぬ余波となって社会全体を見舞うことになります。江戸時代以来、日本人の間で育まれてきたコミュニケーション・スタイルそのものが消滅し始めているのです。Tacit Knowledge に慣れてきた日本人は、常に阿吽の呼吸でお互いの意図を察し、時には物事の加減を考え、状況に応じて融通をきかせて臨機応変に対処してきました。そうした日本社会ならではの柔軟性が、バブル経済とその後のデジタル化、グローバル化の波によって失われ、全てが数値や法律の条文に従ったマニュアルで稼働する機械的な社会へと変化を始めたのです。
 
 文化には強い部分と脆弱な部分とが、コインの表と裏のように同居しています。
 例えば、融通のきく社会は人情味に溢れ、人と人との紐帯を育成します。反面、融通という価値の裏面を見るならば、知人を優遇し、他者を排斥する内と外との枠ができ、時には癒着や賄賂の温床をつくってしまいます。ところが、裏面が悪であるとして、それを削除し尽くしたとき、実は表にあった良い部分をも削り取ってしまうことがあるのです。
 グローバル化という今では陳腐にすらなったコンセプトによって、世界と共通のルールを適応し、世界に開かれた社会を求めたとき、日本にあった伝統的な価値観や感性をも同時に削り取ることで、日本人は自らをアイデンティティー・クライシスに追い込んでいるのかもしれません。
 
 日本が世界に開かれてゆくこと。世界と交流してゆくこと。さらには差別や偏見がない、違う価値を受け入れることのできる柔軟で多様な国となることは素晴らしいことです。ただ、そのことと、日本に長年培われてきた価値観の強い部分とが相殺されてしまわないようにするには、相当な工夫が必要なのです。
 

世界各地の「絶滅危惧価値」を守るために

 私は、失われつつあるこうした価値観のことを、「絶滅危惧価値 / Endangered value」と呼んでいます。価値の裏側の負の遺産を削除しつつ、表側の次世代に残したい部分を育成しない限り、日本が日本である所以がなくなるかもしれません。
 おそらくこうした世界的な標準化の波に晒され、自らの個性を失いつつある地域は日本に限ったことではないはずです。そんな自らのアイデンティティ喪失への危機感が、今世界的に問題となっている人々の右傾化への原動力となっているのかもしれません。
 異文化での異なる価値観を尊重する行為の中で、こうした世界各地の価値観に対する教育や啓蒙が、地球規模で共有されることも必要なのかもしれません。
 

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『日本人のこころ Heart & Soul of the Japanese』山久瀬洋二 (著)、マイケル・クーニー (訳)日本人のこころ
Heart & Soul of the Japanese
』山久瀬洋二 (著)、マイケル・クーニー (訳)

いにしえから現代にまで受け継がれてきた日本人の感性を表す100のキーワードを、簡潔明瞭な英語で説明!日英対訳バイリンガル書。
「恩」や「義理」といった日本人の心の原点ともいえる価値は、一体どこからきて、今の日本ではどのように捉えられているのか。本書はその壮大なテーマに挑み、日本を代表する「日本人の心」を100選び、和欧対訳で簡潔に説明する。キーワードの例:「和」「中庸」「根回し」「型」「武士道」「節度」「情」「忠」「禊と穢」「もののあわれ」「因果」「仁義」「徳」「わび」「さび」「幽玄」など。

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見えない組織から生まれたアメリカの新たなうねり

“The more you can make your organization invisible, the more influence it will have.”

「あなたの組織が見えなくなれば、より多くの影響を与えることができるようになる」
― Douglas Coeの講演より

Invisible organizationが思い描くキリスト教の再組成

 Invisible organization「目に見えない組織」という言葉があります。これは通常ビジネスなどで、バーチャルな連携によって発生する組織を意味する言葉です。
 しかし、この言葉は元々宗教活動などにおいても使用されていました。
 例えば、キリストが最初に伝道を始め、その後彼の弟子たちが教えを広め始めたとき、それは Invisible organization でした。しかし、その組織は確実に拡大し、やがてローマ帝国末期に国家の宗教として崇拝されるに至りました。
 
 この Invisible organization の運営者であることを自認した人物が主催し、大統領をはじめとするアメリカの政財界の大物が、任期中に必ず一度は参加するイベントがあるのです。それは毎年2月の最初の木曜日に、朝食からランチ、さらにはディナーに至るまで開催される ”National Prayer Breakfast” です。2017年の冬に他界したDouglas Coe という人物が運営する、The Fellowship というキリスト教系の組織がそれを主催します。Douglas Coe は、オレゴン州出身のプロテスタント系の伝道師で、終生自らのことを Invisible organization の主催者だと語っていました。実際、彼の主催する組織の活動に参加した政治家は民主党共和党を問わず、直近ではヒラリー・クリントンジョージ・W・ブッシュなど、アメリカのほとんど全ての指導者を網羅しています。
 そして、Douglas Coe はネットワークを通じて、世界中の政治家とアメリカの指導者とのミーティングをアレンジし、イスラエルやアフリカ諸国、ソビエト崩壊後のロシアなど、様々な地域とアメリカとの紐帯に貢献したのです。これは、日本ではあまり知られていない事実でしょう。彼はその組織を通じて一つの目論見を果たそうとしていたように思えます。それは、キリスト教の再組成という遠大なビジョンです。
 

アメリカで静かに進行するキリスト教の融和

 アメリカ人の多くはキリスト教を信仰しています。アメリカ人の最大多数が所属する様々なプロテスタント系の宗教組織に加え、アイルランドやイタリア系のアメリカ人を中心にローマ・カトリックも深く社会に浸透しています。
 今、そんなキリスト教を一つにまとめようとする動きが静かに進行しているのです。その輪は、キリスト教の母体として旧約聖書を共有するユダヤ教にまで及ぼうとしています。元々アメリカの友好国ではあるものの、トランプ政権はさらにイスラエルとの同盟関係を強化し、中東諸国に衝撃を与えています。さらに、アメリカとロシアも決して以前のように激しく敵対するライバルではなくなりました。ロシアがソ連の主軸国であったころ、アメリカは共産主義への脅威から、ソ連と激しく対立していたことは周知の事実です。しかしソ連が崩壊し、ロシアに伝統的に根付いていたロシア正教の活動が活発になると、アメリカとロシアは猜疑心を持ちながらも静かな接近を始めたのです。
 
 西暦395年にローマ帝国の国教となって以来、ローマ帝国に保護され、国家の精神的支柱となったキリスト教を、人々はローマ・カトリックと呼びました。そしてローマ・カトリックは、自らの教義に相容れないキリスト教徒を異端として追放し、以来長年にわたってそうした人々に厳しい迫害を加えてきました。そして、キリスト教ではないにしろ、キリスト教の母体ともいえるユダヤ教に対しても同様の迫害を加え、その伝統は近現代にまで至りました。帝政ロシアナチス・ドイツでのユダヤ人への迫害は、20世紀の記憶として人々の心に焼き付いています。さらにローマ・カトリックは、東ローマ帝国が主催するキリスト教に対しても、教義の違いをもって絶縁し、それがロシアやギリシャなどで信仰される正教会と呼ばれるキリスト教の母体となりました。
 16世紀以降、そんなカトリックの権威に対抗して広がったプロテスタント系の人々の活動も、神聖ローマ帝国とつながるカトリック系の国王や領主などからの厳しい弾劾を受け、プロテスタント系の人々の多くが新大陸に避難し、アメリカ合衆国成立の原動力となりました。このように、キリスト教の様々な分派は分裂と対立を繰り返し、お互いを強くけん制しながら、現代に至ったのです。
 
 過去に一度、そんなキリスト教世界がまとまろうとする動きがありました。それは、イスラム教国であったセルジューク朝トルコが東ローマ帝国を圧迫したときのことでした。時の東ローマ帝国皇帝が、絶縁状態にあったローマ・カトリックの教皇に救援を求めたのです。それが世に名高い十字軍が始まった原因となりました。一瞬とはいえ、キリスト教が対立から融合に向かった瞬間です。1096年のことでした。
 それから1000年近くを経た現在、キリスト教の多様な組織が共存するアメリカ社会の中で、それまでの対立から融和へと向かう静かな活動が再び始まったのです。それは、共産主義の脅威に起因し、現在ではイスラム教との対立軸の中で政治とも融合する一つのうねりとなりつつあります。それがトランプ政権でのイランや中国との対立、さらにはイスラエルとの同盟強化の向こうにあるパレスチナの人々やアラブ社会との対立などを生み出しました。こうした静かな動きを支える組織こそが、Douglas Coe などに代表される Invisible organization なのです。
 

(左から) ポパイ,スーパーマン,トムとジェリー

日常の小さな営みから巨大なうねりへ

 人は、生まれながらにしてその地域の文化の影響を受けて育ちます。
 例えば、アメリカの漫画を思い出してください。スーパーマンでも、トムとジェリーでも、ポパイでも、そこには常に正義のヒーローと悪人とが存在し、正義が悪をやっつけるというテーマが底流しています。子供の頃から、人々は無意識に、この二元論を植え付けられてしまうのです。その背景には宗教での正邪の発想があります。この正義と悪との二元論は歴史を通して人々の心に刻まれ、人々を敵と味方とに引き裂きました。古くはキリスト教内での異端への弾劾に始まり、近年では第二次世界大戦において、ドイツ人が自らを正義として、ユダヤ人は悪人であるというレッテルを貼って虐殺しました。今、アメリカ社会の中には、共産主義を経て、イスラム教への脅威が新たな善と悪という対立項を人々の心の中に植え付けています。この善と悪という二元論が浸透する過程を見れば、最初の段階ではどこにもそれを指導するリーダーは存在しません。それは町の教会での日曜日の礼拝や、学校での道徳の授業、あるいは家庭教育などといったごく日常の中で培われてゆく価値なのです。そして、それがある程度社会の価値として認知されたとき、そこに指導者が現れ、一気に社会や国家を統率するようになるのです。Invisible Organization とは、そうした日常の小さな営みを巨大なうねりに変化させる見えない触媒の役割を担っていることになります。
 キリスト教が過去の対立から融合へと向かうのが良いことか、それとも新たな二元論へ向けて人々を駆り立てる危険な行為かは、我々一人一人がしっかりと判断しなければならないことでしょう。
 
 ただ、現在問題となっている政治の世界でのポピュリズムが、この日常の価値を巨大なうねりへと変化させる強力な触媒となっていることは事実です。日本と韓国との対立、中国とアメリカとの対立、イスラム社会でのシーア派スンニ派との対立、さらに宗教に起因するインドとパキスタンとの対立など、二元論が社会に浸透するとき、常にそこには Invisible Organization という触媒があり、それによりガスが充満したときの起爆剤の役割を担おうと、チャンスを狙う指導者がいることを我々は注視しなければならないのです。
 

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『アメリカ史 / A Short History of America』西海コエン (著)アメリカ史 / A Short History of America』西海コエン (著)
アメリカの歴史を読めば、アメリカのことがわかります。そして、アメリカの文化や価値観、そして彼らが大切にしている思いがわかります。英語を勉強して、アメリカ人と会話をするとき、彼らが何を考え、何をどのように判断して語りかけてくるのか、その背景がわかります。本書は、たんに歴史の事実を知るのではなく、今を生きるアメリカ人を知り、そして交流するためにぜひ目を通していただきたい一冊です。

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