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ニューヨークの亡霊が語る中間選挙への思いとは

ニューヨーク証券取引所(PC:山久瀬洋二)

“They cultivated land, created villages and sometimes they traded with American Indians and sold what they received or produced to Europe. For example, in the early days, many immigrants in New York went into such wild land to hunt beavers as its fur was used to make hats in Europe.”

彼らは土地を開墾し、村を作り、アメリカン・インディアンと交易をして得たものでヨーロッパと交易をした。例えば、初期の頃、多くの移民たちは荒野に出てビーバーを獲り、その毛皮を帽子の材料としてヨーロッパに輸出していたのだ。
 
(近刊、ラダーシリーズ「アメリカ歴史ものがたり」より)

アメリカ人のルーツをたどる旅へ

中間選挙も近づいてきた今、ニューヨークを旅していました。そして、久しぶりに街の中を散策しました。
そこで今日は、この街のある側面を紹介しましょう。
ニューヨークを訪れる人は、摩天楼の下の活気ある街で忙しく働く人、アートやパフォーマンスの世界で個性ある舞台や作品を発表する劇場、といったダイナミックな街に期待していると思います。もちろんそれは事実です。
 
しかし、ニューヨークにはもう一つの面白い顔があるのです。
アメリカ人でニューヨークを訪れる人の多くは、まずそこに自らのルーツを探しにきます。
その昔、この街にはヨーロッパから経済的、政治的、宗教の迫害を逃れて、ありとあらゆる移民がたどり着いていました。アメリカ人の多くがその子孫です。
そして、そんな子孫のうち、17世紀から18世紀という早い時期にアメリカに移住してきた人たちが、この街の原型を作りました。
 

世界の金融の中心、パールストリートとウォールストリートとの交差点(PC:山久瀬洋二)

17世紀:オランダ人の入植と欧州との交易

ここで17世紀の話をしましょう。
まずは、現在金融街として知られるウォールストリートとその周辺、すなわちマンハッタン島の最南端近くに行ってみましょう。それは、ニューヨークがニューアムステルダムといわれていた頃の話です。その名前が示すように、ここは、オランダ人が入植して1626年に造った街です。人口は1500人にも満たず、彼らはマンハッタン島の南端でヨーロッパとの交易に従事していました。
ヨーロッパとの交易で一番人気があったのが、ビーバーの皮でした。それは帽子の皮として重宝されていたのです。ハドソン川にはビーバーがいました。ビーバーを捕獲し交換していたのが、当時のネイティブ・アメリカン、つまりアメリカン・インディアンだったのです。時には移民自身が荒野に分け入って、ビーバーを捕獲したこともありました。
ビーバーを売買していた場所は、ビーバーストリート(Beaver Street)と名付けられ、当時のままの名前で今も残っています。
 
そのすぐそばは海辺でした。そこにはオイスターがいて、その殻が転がっていたことから、今でもオイスターストリートという名前が残っています。その先は浜辺でした。そのため、現在そこを南北に走る道はWater Streetと名付けられています。
オランダ人は、アメリカン・インディアンと交易をする一方で、自分たちの街の防御のため、街はずれに木杭の壁を作りました。その壁「Wall」のあったところが、そのままWall Street という名前になったのです。通りの名前から、360年前の入植者の生活が偲ばれるのです。これは、ニューヨークが最も古かった頃の話です。
当時、ヨーロッパから新大陸に到達するには数ヶ月を要し、時には風や海流に流され、ニューヨークに入港する前にアメリカ北部などに漂着することも間々ありました。
オランダとイギリスとの交信には、半年近くの時間を要していたのです。
 
その後、ヨーロッパでオランダとイギリスが戦争を始めると、イギリスの軍艦がニューアムステルダムにやってきます。オランダ人の総督は交戦を主張しますが、住民の多くは様々な移民で、むしろ交易に影響のないよう平和裡にイギリスに植民地を明け渡すことを求めます。こうしてニューアムステルダムは、1664年にニューヨークとなりました。
最後のオランダ人の総督は、ペトラス・スタイブサンといいますが、彼の名前は、彼が所有していた農園のあったイーストビレッジに今でも通りの名前として残っています。そしてそのあたりから、オフブロードウエイやレストランなどの並ぶグリニッチビレッジ一帯は、果樹園や農園が切り開かれていました。そんなマンハッタン島の南端からずっと一本だけ粗末な道が北に伸び、オランダ人の農園のあったマンハッタン北部まで繋がっていました。その馬車道が、現在のブロードウエイです。北部マンハッタンのオランダ人は故国にあったハーレムという街からやってきました。その名前が現在のハーレムとなっています。
 

パールストリートに残るフランシス・タバーン(PC:山久瀬洋二)

18世紀:イギリスからの独立と移民の対立

イギリス領ニューヨークとなったマンハッタン。
しかし18世紀になっても、現在のダウンタウンが街はずれでした。イギリスからの課税に反対して人々が立ち上がり、独立革命がおきたとき、イギリスはニューヨークを拠点に守りを固めようとしました。
そんなイギリスに対する謀議を行った当時の居酒屋が、今も残っています。ビーバーストリートにあるフランシス・タバーンという建物は、当時のまま摩天楼の中に保存され、今でもレストランとして生き残っています。その謀議にはジョージ・ワシントンも加わっていました。1776年に有名な独立宣言が人々の前で披露されたのも、現在ニューヨークに19世紀のままの姿で残る市庁舎が建つ「コモン」と呼ばれた広場でした。
 
しかし、独立戦争が始まるとニューヨークはイギリス軍に圧倒され、占領されます。その後アメリカ各地で戦闘が続いていたとき、ニューヨーク湾に浮かぶイギリスの軍艦の中に、アメリカの人々が捕虜として収容されていたといわれています。
 
独立後、短い期間ではありましたが、ニューヨークはアメリカの最初の首都となりました。
それから50年も経たないうちに、ニューヨークはグリニッチビレッジあたりまで、移民で埋め尽くされます。ファイブポイントと言われた交差点の一帯には特に貧しい移民が多く、その中で新参者と、古くからの移民とが、利権をめぐって激しく対立していた話は、ディカプリオが出演する映画、『ギャングズ・オブ・ニューヨーク』のテーマとなっています。
ディカプリオが演じる人物が成人した頃、南北戦争がおこり、そこでもすでに富を得て、街の北に豪邸を構える人々と、島の南部に暮らす人々との対立が、徴兵制度の不平等から暴動へと発展します。その結果、多くの黒人がリンチに遭いました。暴動のあった場所は、現在のグリニッチビレッジだったのです。
 

その昔、移民がひしめき合ったファイブ・ポイント(PC:山久瀬洋二)

21世紀:対立深まるアメリカの未来は

摩天楼の街ニューヨークが今の姿に近づいたのは、20世紀前期のことでした。そして現在、ウォール街をはじめとしたロウアー・マンハッタン(Lower Manhattan)は、そこにあるニューヨーク証券取引所を中心に世界の金融市場を動かしています。
しかし、その高層ビルの底にうごめく過去の人々の物語は、あたかも亡霊のように、中間選挙を前にして二つの世論に大きく割れるアメリカ人に語りかけています。
いつまで、新しい移民とアメリカに渡り生活が成り立った人々との対立を続けているのかと。アメリカはそんな対立の中から、様々な人権への配慮を法律にし、妥協しながらそれを制度にして、現在の繁栄を勝ち取ったのではないのかと。
 

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『日英対訳 アメリカQ&A』山久瀬洋二日英対訳 アメリカQ&A
山久瀬洋二 (著)
IBCパブリッシング刊

地域ごとに文化的背景も人種分布も政治的思想も宗教感も違う、複雑な国アメリカ。アメリカ人の精神と社会システムが見えてくる!

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日本の未知の体験、「拡大から縮小」とは

19世紀末、アメリカに移動する移民たち

Rather than rely on battleships and the mettle of the Imperial Army for their expansion, they could build their commerce on mechanisms forged largely by the Anglo American –jets, modern telecommunications and open financial markets—to explore an ever-wider sphere of activities and countries.

軍艦や陸軍の強靭な意識に依存することなく、ほとんど欧米が開発した航空機や電信システム、自由経済市場によって彼らは自らの商圏を今までなく広範に地球上の様々な国々に拡大することができた。
(Joel Kotkin著 Tribesより)

Diasporaという言葉があります。
これは、世界に拡散移住したユダヤ系の人々を指し、民族の離散、移住を意味した宗教的な用語です。Diasporaはユダヤ系の人々のような経験のない日本人には最も縁のない用語といえます。
 
とはいえ、日本人が海外に移住拡散した経験がないわけではありません。
実際、戦前には多くの日本人がアジア各地に、アメリカなどに移住しました。
そして、第二次世界大戦の終了と共に、海外の植民地に在住していた500万人の人々が日本に戻ってきました。中には旧満州でロシア軍の侵攻にさらされ、家族や同胞を失いながら命がけの帰国を経験した人々も多くいました。
 
もちろん、すべての人が帰国したわけではありません。
例えば、アメリカに移住した日系人の人々は、戦争がはじまるとアメリカの収容所に収監されたものの、戦後はそのままアメリカに残り、アメリカ人として生活を続けました。彼らは、まさに日本人のDiasporaです。
戦後も一部の日本人は南米などに移住し、未来にチャレンジしたことはありました。しかし、500万人が日本に帰国したのを最後に、現在まで大規模な海外移住の波を日本人が経験したことはありません。
 

アメリカ人は皆、Diasporaの子孫たち

 
このヘッドラインの文章を書いた著者は、この著書で1925年の日本の状況に触れています。それによると、当時の日本の人口密度はドイツやイタリアのおよそ3倍以上だったようです。この過密な状況が生み出す経済的困難に押し出されるように、多くの日本人移民が海外に流出したのです。
当時、ニューギニアボルネオといった太平洋西岸の島の主権を日本に渡すことで、日本の軍事的な膨張の原因となっていた過密な人口問題を解決するべきだ、といったオックスフォード大学の学者がいたほどなのです。それは、増加する日本や中国からの移民に、アメリカなどで社会的反発や差別がおき、移民の流入への規制が進められていた最中の提案でした。ひどい話です。
そして、こうした状況に押されるように、日本は中国に進出し、権益を拡大しようとしたことが、第二次世界大戦の引き金となったのは周知のことです。
 
戦後、日本はアメリカを軸とした戦勝国の管理下におかれ、自由経済の枠組みの中で活動するように位置づけられました。戦前のような膨大な軍事的負担もなくなり、日本は自由経済のプールの中でうまく泳ぐことによって奇跡的な復興をなしとげたのです。
その段階で、戦前よりも多くの日本人が海外に渡航するようになりました。その傾向は現在も変わっていません。しかし、それは移住ではなく、あくまでも渡航だったのです。軍事的野心を放棄させられ、戦前とは真逆な方法で経済的に成功した日本は、国内にコアを維持し、海外に支店や工場を拡張することで、世界へと平和に進出できたのです。
興味深いことに、その結果日本企業は常に日本に本社をおき、本社の中枢は全て日本人が管理運営することで、そのネットワークを維持してきました。戦前は軍事的な拡張のニーズによって、日本人の海外移住が促進されました。しかし、戦後は経済的なニーズのみによって、日本人は本社と海外の支社とを振り子のように行き来するだけでよくなったというわけです。
 
ただ、このことで、島国に閉じ込められた日本人は、海外と日本とを区別し、日本と海外との溶解を拒絶して生きてゆくことに馴染んでしまいました。例えば、数百年にわたって海外に進出してきたイギリスの場合、自国の伝統を維持しながらも、海外からの移民も増加し、それにともない国民の意識も大きく変化しました。今回ヘンリー王子結婚相手は、アフリカ系の血を引くアメリカ人です。こうしたことが日本の皇室に起こり得るかを考えてみれば、日本がいかに日本人という血にこだわっているかが見えてきます。
実際、日本企業のトップに外国籍の企業家が就任することも、買収などによって資本関係に変化がない限り、稀にしかありえません。
このことが、戦後の拡大した日本経済が、IT革命による新たなグローバル化の波に対応できず、その後の失速の原因になったのだと、多くの人が指摘します。
 

今後、日本はDiasporaをどう捉えるか

 
そして今、日本は人口の老齢化と少子化に悩まされています。
日本の人口が減少し、それに伴い国力も衰えてゆくのではないかと多くの人が懸念しています。人口の減少によって、豊かになった経済インフラを支えるだけの人材を維持できなくなるのです。
アジアに進出した戦前と、過密な人口を経済的な膨張で支えてきた戦後。この二つの時代では経験できなかった現実に日本がさらされているというわけです。
 
人口の逆ピラミッド化と人口そのものの減少、という未来の試練を乗り越えるには、日本という島の中と、海外という島の外との壁を取り払っていかなければなりません。教育制度、社会保障制度、そして移民政策などの変革を通して、日本社会は変化を余儀なくされています。
そして、拡大から縮小に向かう日本人がDiasporaとなり、海外からのDiasporaとの溶解を進めてゆく現実が、近未来に迫っているのかもしれないのです。

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