タグ別アーカイブ: 起承轉結

「個人主義」を「利己主義」と訳す文化背景とは

©FEE

“Individualism is the principle that the single person is more important than the group and that people should work and own things for their own advantage.”

(Individualism インディビジュアリズムは、集団よりも個人が大切で、その個人が自らの意思に従って、自らの利益を求めて活動するべきだとする価値観を指す)
― Cambridge Dictionary より

文字より「語る」西欧文明の遺伝子

 先週のブログで、アジア、特に日本人が物事を表現するときの修辞法について、古代中国までそのルーツを遡ってみました。
 そこで今週は、欧米流の修辞法について考えてみます。
 
 欧米では表音文字が発達しました。
 それは、物を表現するときに、その形状や意図を描写する形で発展した漢字などとは全く異なる体系です。
 「はじめに言葉ありき」というのは聖書の有名な一節ですが、実際に欧米では長きにわたって、言葉が文字に優先したコミュニケーションのツールでした。
 古代ギリシャで現在のアルファベットの祖先ともいえるギリシャ文字が使われていたころ、人々はアゴラと呼ばれる広場に集まって、都市国家の運営などについて話し合っていました。古代ギリシャ哲学も、こうした環境の中で、対話を通して思索を深めていったのです。その伝統は、のちのローマにも受け継がれます。そもそもローマ自体が、ギリシャと同様の都市国家として誕生していました。
 やがてローマが超大国に成長したとき、その運営に携わった元老院の中でも、同様の議論によって国家の方針が討議されていたのです。語ること、つまりディベートが西欧文明の遺伝子の中に組み込まれていったのです。
 ローマ帝国が超大国として西欧社会に拡大したとき、その遺伝子も各地に拡散していったはずです。
 
 一方、中国では、まずは文字によって物事をしっかりと表現することが政治、そして文明の基本となりました。
 その伝統は、漢字が普遍的な文字として中国世界に広く拡散した古代から、脈々と受け継がれてゆきました。
 元々、中国流の「起承転結法」は、皇帝という絶対的な権力者へのプレゼンテーション技術としては最適でした。権力に対する恐怖を人々がくぐり抜けるとき、自らが言いたいことのポイントを最初に語ることには常にリスクが伴います。遠回しに表現しながら、次第に核心に近づけば、そうしたリスクを軽減しながら提案や諫言を行うことができたはずです。
 
 それに対して、西欧では「語ること」を文字で補足する意識が育てられたのです。
そうした伝統が、長い年月の中で形骸化した時期もありました。中世から近世にかけて、権力に対する恐怖の構造がヨーロッパにもあったからでしょう。
 しかし、ルネサンスを経て、市民階級が育成され、やがて彼らが王権などの絶対的な権力に挑戦してゆく過程の中で、彼らの中に眠っていた「語ること」の遺伝子が活性化されます。
 特に、大西洋を隔てた新大陸において、人々が入植地であたかも古代ギリシャの都市国家のように街をつくり始めていたアメリカでは、その傾向が顕著でした。
 

©SSP

“Individualism”を受け入れられないアジア

 古代ギリシャ以来、効率的に語り、相手を説得するにはどのようなレトリックが有効かという発想のもとで、様々なロジックの構成方法が進化し、それが近代国家の中で急速に成長したのです。イギリスの議会での議論の模様などを見ると、いかにその伝統が彼らの遺伝子に中に組み込まれてきているかが理解できます。
 まず自らが言いたいことをしっかりと表現し、その理由を述べ、次にそれをサポートする実例を列挙し、その上で改めて結論をしっかりと表明する修辞法が、市民革命を経たヨーロッパや北米では、有効的なディベート術として育成されたのです。
 
 それに対して、皇帝が君臨する中国、あるいは日本のように士農工商という身分制度で固められた社会では、ディベートを行うこと自体が不可能でした。
 あくまでも、文字文化に則したレトリックを使い、過去の事例などを挙げて背景から語ることで、権力の脅威に対応するということが常識となっていったのです。それは、時とともに人々の「礼節」という価値観に直結しました。
 身分制度という枠の中で、相手をいかに立てながら自らの意思を伝達するかという修辞法が、社会を運営するための礼儀作法となり、人々の心の中に根強い価値観として定着していったのです。
 
 例えば、日本人は立場が上の人の発言に対して、最初から反論することを嫌います。また、自らの意見や好悪をはっきりと表明する人を「身勝手な」、あるいは「自己中心的な」人と認識して、受け入れません。
 それは、「カニの横這い」のようなもので、表向きはどんどん意見を表明してほしいと言っている人でも、実際に欧米流で単刀直入に切り込まれるとムッとするケースが多いはずです。
 
 欧米のディベート文化で培われた「自己や自我を大切にする」という発想法を端的にサポートしている価値観は、インディビジュアリズム “Individualism”です。
 この単語にはほとんどネガティブな意味合いはなく、アメリカ人などにとっては最も大切にする価値観です。しかし、この単語を日本人が英和辞典を作る過程で翻訳したとき、そこに「個人主義」という意味と共に「利己主義」という訳を加えました。面白いことに、アメリカやヨーロッパの辞書には Individualism を selfishness と同義で扱う辞書はまずありません。いかに欧米流の語り方が、日本などアジアの国々で不協和音となっていたかが想像できます。
 
 ここで忘れてはならないことは、ディベートに依拠する欧米のコミュニケーション文化の基本にある《「言葉」は「心」とは異なる 》という発想です。
 言い換えれば、言葉はあくまでも人にロジックを伝達するためのツールであり、相手とディベートをするときは、そのことによって相手の心を攻撃しているのではないという暗黙の了解があるのです。この了解を踏襲すれば、たとえどんなに激しい議論をしたとしても、個人と個人とが傷つけ合うことはないのです。
 しかし、この発想はアジアではなかなか受け入れられません。はっきりと反対意見を言われれば、礼節を逸し、相手を攻撃していると受け取られるのです。攻撃されたと思う相手は面子を保つために、その攻撃に対して厳しい拒否反応を示します。
 
 そして最近では、欧米流にはっきりと物事を表現しなければと考えた人が、このロジックの背景にある「ツール」として言葉を使うという了解を知らずに、強い言葉で自己を表現することがはっきりとものを言うことだと誤解することもあるようです。
 

 古代ギリシャと古代中国。2000年以上前に分岐したこのコミュニケーション術の相違が、異文化での最も深刻な行き違いの原因になっていることに気づいている人はまだまだ少ないようです。
 

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だれでも30秒は英語を話せます!

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日常表現の向こうに見えるミレニアムの背景

“The Japanese communication pattern is very indirect and far less verbose than what the English-speaking West is familiar with.”

(日本人のコミュニーション方法は、英語を話す欧米人から見れば、極めて間接的で言語表現に頼らないものだ)
― Cultural Atlasより

事例:親子の会話と会議での会話

「ママ、なんかお腹が痛い」
「どうしたの。熱は?」
「うーん、わかんない」
「そう、お医者さんに診てもらう?」
「そこまでではないけど。でもちょっとだるい」
「学校はどうするの?」
「今日は無理かも」

 こんな会話を、子供の頃に経験した人は多いのではないでしょうか。
 この子が母親に言いたいことは、「今日は学校に行きたくない」ということですね。多くの日本人には、即座に子供の意図が伝わるはずです。もしかすると、その日学校でテストがあるので、行きたくない言い訳をしたのかもしれません。
 
 これを大人の会話に置き換えましょう。
 

「いえね。今回の提案はどうしましょうか」
「と言いますと?」
「なにせ、コストもかかりますしね」
「アウトソースせずに社内でやってみればどうでしょう?」
「いやあ、皆今のプロジェクトに大忙しで・・」
「では、今回の彼らの提案は見送りますか」
「そうですね。そうしてもらえれば助かります」

 子供と母親との会話と、大人になって会議で行うときの会話と、どれも最後に本音が出てくるロジックの作り方は同じです。
 つまり、日本人の会話の方法は、まず取っ掛かりとなる一つのファクトから始まり、それをやり取りしながら本音や結論へと導いてゆくケースが多いのです。二つの例からお分かりのように、これは日本人が幼い頃から大人になるまで、親から子供へと伝搬されてきたロジックの修辞法なのです。
 実は、このたわいもない会話の進め方のルーツが、なんと1400年も前から日本人に脈々と受け継がれ、思考方法や表現方法のルールとして育成されてきたということを考えてみたことはあるでしょうか。
 

1400年受け継がれてきた日本流「起承転結」

 ここで、1400年近く前の中国に目を向けてみます。
 当時、中国はの時代の始まりでした。二代皇帝・李世民が、それまで短命な政権が入れ替わり立ち替わり交錯していた中国を唐の元に統一し、中国の文化が周辺民族にも伝搬されてゆきました。
 そんな中国では、歴代皇帝の政策を書記官たちが記録し、その記録の客観性を保つために、皇帝といえどもその内容を簡単には閲覧できなかったといいます。それは、皇帝が権力を乱用して記録の客観性に影響を与えることを防ぐための制度だったといわれています。
 特に、唐になって中国が内政外交ともに安定すると、書記官は記録の腕を磨くために、文章の綴り方や書体などを整えます。そこで培われた修辞法は、宮廷に仕える官僚たちに大きな影響を与えてゆくことになったのです。それ以降、文官が中国の漢字文化の担い手になってゆくのです。
 
 彼らは時には文章家として、時には詩人として、唐詩選などに残る多くの詩文を残しました。彼らが最も美しいとした修辞法が、まず取っ掛かりの事例を述べ、それをしっかりと補足し、さらにサイドから別の事例で補強し、最後にその土台の上に結論を述べるという、「起承転結法」だったのです。
 官僚の文章のみならず、皇帝を諌めるときなどのレトリックの作り方、さらには五言絶句などの詩作にも、この方法が用いられたのです。それは時代を超えて現代まで伝搬され、実は、習近平国家主席の演説にもこの影響が見て取れます。
 
 そんな唐の時代に、日本からは頻繁に遣唐使が中国に派遣され、中国の文化を吸収しては日本に持ち帰りました。そして、この中国の宮廷での書類の作成技術や表現方法、修辞法が日本に伝わり、知識人や権力者の間で活用されたのです。それが時とともに、日本の風土の中でさらに独自に培養されたのが、現代の日本人のコミュニケーションスタイルとなったのです。
 
 では、古代中国での修辞法を代表する有名な漢詩を事例として紹介しましょう。
 

春眠暁を覚えず
(春の夜は短い上に寝心地がよく、夜明けを忘れるくらいぐっすりと眠りこんでしまった)
諸所に啼鳥を聞く
(ああ、あちこちで鳥が冴えずっているようだ)
夜来風雨の声
(昨晩は風や雨の音がして嵐のようだった)
花落つること知んぬ多少ぞ
(花はどれくらい散ってしまっただろうか)

 
 孟浩然という唐の詩人のこの作品を、高校で習ったなと思い出す人も多いでしょう。この詩で言いたいことは、寝坊したことでも、鳥が鳴いていることでも、夜の嵐でもありません。春の嵐で花が散ったのではないだろうかという思いを表現するために、こうしたレトリックを使ったのです。これは冒頭に紹介した子供と母親との会話、さらには社会人の会話事例と全く同じレトリックなのです。
 

欧米流「結論ファースト」とうまく使い分けて

 中国に起因するこのアジア型の表現方法が、結論を先に言う欧米の表現方法と異なることから、様々な誤解が生まれることは、すでに何度かこちらのブログでも紹介しました。冒頭で紹介した英文では、そんな日本型の表現が間接的で言葉少なに見えると記しています。その論文では中国に対しても、日本とレトリックの類似点があるように指摘されています。しかし、我々が知らず知らずの間にこうした表現をする癖がある背景に、1400年もの意識の積み重ねがあることに気付くことはあまりないでしょう。
 
 コミュニケーション文化の違いが世界に存在し、ここで紹介したように、それぞれの遠い昔の文化をルーツとして形成されてきたわけですから、そこで起こる誤解は、よほど注意深く対処しなければ解けないのです。
 
 しかも、そうした日本型のコミュニケーションスタイルがまどろっこしいということで、欧米流のレトリックを取り入れようとする動きを考えるとき、1400年以上の重い石をいきなり砕くことの危険性をも感じてしまいます。
 文化は良し悪しの問題ではなく、お互いに異なることはごく当然のことなのです。むしろ、欧米の人と交流するときは、彼らのロジックを考慮し、日本人同士、あるいはアジアの人同士での交流のときは、古来のレトリックを使用する、というスキルの使い分けが必要なのです。
 
 この使い分ける技術を無視して、自らのコミュニケーションスタイルを否定すると、それは思わぬ消化不良と反作用を生み出し、自身のアイデンティティ・クライシスへと繋がってゆくはずです。
 この課題は、次の機会にさらに分析してみたいと思います。
 

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