ヘルシンキからエストニアへの高速船
山久瀬洋二の日常と旅日記

旅日記(7) バルト海と地中海を結ぶ古代の夢を追いかけて


バルト海。そこは、北の地中海である。古代、地中海を席巻したフェニキア人やギリシャ人は、地中海の東にあるエーゲ海やアドリア海を島伝いに航行した。
一つの島が見えなくなると、次の島がみえてくる。古代ギリシャの詩人ホメロスのいう葡萄色の海は、こうして交易ルートとして重用された。
それと同じ環境がバルト海にもある。


世界遺産のエストニア首都タリン旧市街

タリン旧市街

バルト海に面したバルト三国の一番北に位置するエストニア。そこの首都タリンは旧市街が世界遺産に指定されている。
ここは、昔ドイツはリューベックに本部を置いてバルト海一帯から現在のロシアに至る広範な商圏を我が物にした商人のギルド、ハンザ同盟にとっても重要な交易都市だった。ハンザ同盟は12世紀以降ルネサンス期に至るまで、北ヨーロッパの都市国家をつなぎ繁栄する。バルト海に面した地域や島には、そうした栄華を物語る都市があちこちにあり、タリンもその一つ。
街は船着き場から直接上がった丘に向かってあり、中央にはハンザ同盟の支部もあって、都市はリューベックの掟に従って運営されていた。
そんな古都がそのまま保存されている。

世界遺産のエストニア首都タリン旧市街

タリン旧市街

ハンザ同盟が隆盛を極めるさらに前、このあたりはノルマン人、すなわちバイキングの交易ルートでもあった。彼らは巧みな操船術で西は現在のカナダ北部にあるニューファウンドランド島から、東はロシア奥地に至るまで、活動範囲を広げていた。彼らも地中海の海の民と同様、島を伝って移動する。

ノヴゴロドもその後ハンザ同盟に加わり、商業都市として繁栄する。
ノルマン人、そしてハンザ同盟の商人達の交易ルートは、タリンなどのバルト海の都市から、ノヴゴロドを経て南下し、キエフからさらに黒海を経て、コンスタンチノープルに及んでいた。そして、もちろんその東端からはシルクロードへ、そして南端からは中東を含む地中海世界全体へ販路が広がってゆく。

旅をしながら歴史に触れるときは、年表に従った退屈な日本の歴史教育を忘れよう。そして、横に広がった人々の交易や交流に夢を馳せよう。縦に切るのではなく、横に広げないと、人々のグローバルな動きはつかめない。
12世紀、この豊かな交易の富を、モンゴル軍があさってゆく。
ロシアでいう「タタールのくびき」である。その侵略をノヴゴロド公国が逃れたことで、ロシア世界の中でここが東の世界との接点として注目される。そして、モンゴル人が駆逐されたあと、同じルーシによる都市国家、モスクワ公国が勃興し、ついに商人が自治を守っていたノヴゴロド公国も吸収される。その過程で6万人にものぼる人々が虐殺されたという。1570年のことだった。
日本でもそれから間もなく世界に目を向けた商人の街、堺が信長そして秀吉の傘下に伏している。その後ほぼ似た時期に、日本に徳川幕府という統一国家が産まれたように、ロシアにも都市国家を統一したロシア帝国が創成する。

中世のギリシャ正教会が並ぶノヴゴロド

中世のギリシャ正教会が並ぶノヴゴロド

ロシア帝国や、江戸幕府、フランスやドイツなどに近代国家ができるまでの、バルト海と地中海、そしてユーラシア大陸を駆け巡る人々の活発な動きは、我々には余り語られない、歴史のロマンなのだ。
中世ヨーロッパの人々にとって貴重なタンパク源であったニシンの塩漬、さらに穀物や毛皮が、バルト海から大量にヨーロッパにもたらされ、ノヴゴロドやキエフなどには、中部ヨーロッパの織物や地中海の産物が運ばれる。ギリシャ正教もそのルートで北上しバルト海に至り、今やロシアの最も重要な宗教へと進化した。あのギリシャ正教会の建物に共通した玉葱型の塔。これは、現在のイスタンブールに本拠をおいたビザンチン帝国で様式化されたもの。それがイスラム勢力の勃興とともに、モスクの様式としても取り入れられる。こうした文化の流れの線の上に、バルト海から地中海への人の動きがあったともいえる。

タリンに首都をおくエストニアは、旧ソ連から独立した後、今は EC の一員としてユーロも流通する。タリンへはフィンランドの首都ヘルシンキからは高速船で1時間半。
さらに、ノヴゴロドはサンクトペテルブルグから列車で3時間。サンクトペテルブルグにはヘルシンキから同じく列車で3時間。いずれもサービスは頻繁だ。

ヘルシンキからタリンへの船から見るバルト海も、北国の海ではありながら、あのホメロスの言葉を何故か思い出させる、葡萄色だった。

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