その一言が!乗り越えよう異文化摩擦

エグゼクティブ・コーチング(26): 日本人のお詫びの文化には本当に問題があるのでしょうか?


日本人は、謝罪をしすぎるといいます。そもそも、不祥事などがおきたとき、幹部がそろって記者団の前に頭を下げる行為自体、海外ではないのでしょうか。

記者団の前でそろって頭を下げる行為は、日本ならではの風習です。
確かに、日本人はお詫びをよくします。
その背景には、お詫びをすることで、相手の気持ちを鎮めることをまず優先しようという日本固有のコミュニケーション文化があることを知っておいて欲しいのです。

例えば、身分制度がしっかりと規定されていた江戸時代、身分の高い者への無礼は命のリスクをも伴うものでした。
ですから、何か問題を指摘されたら、まずは謝って相手の気持ちを鎮めることが優先されました。
また、農耕社会である日本では、伝統的に集団で行動することが義務づけられ、個人の理由で、集団行動から外れることはタブーでした。
従って、人と異なったことをして咎められたときは、まずその集団からつまはじきされないように、お詫びをして相手の気持ちを鎮め、和を保つことが、個人としても組織としても、とても大切だったのです。

この考え方は、明治時代になっても受け継がれ、さらに日本が民主主義国家となった戦後にも、人々の意識の中に深く刻み込まれたまま、遺伝していったのです。

ですから、例えば法人に不祥事がおきたり、事故が発生したりすると、立場が上の集団である顧客に、または一般の株主に、さらには社会全体に対して、まずは何をおいてもお詫びをして、集団から疎外されないように努めるのです。

江戸時代から、お詫びは様式化され現代に至っています。それは身分の低い者が高い者に頭を下げる行為と一体化されました。
サムライの前を一般の人が横切るときも、ちょっと頭を下げ、体を小さくして敬意を評します。集団の中に不祥事が発生すると、まずは全員で作法に従って監督するものに頭を下げ、許しを請いました。
このように、お詫びは「型」となって、日本のコミュニケーション社会の隅々に浸透したのです。記者団の前で3名の幹部がそろって頭を下げる行為は、このようにして出来上がった「型」なのです。

しかし、これは正に日本固有の社会現象です。
というのも、多くの国の場合、そもそもお詫びとは、相手の怒りを鎮め、自らが疎外されないようにするためのものではないからです。
単純に、お詫びとは、自らがやったことで、本当に人に迷惑をかけたり、社会に危害を加えたりした行為そのものを本人が認めて行うものです。
もちろん、自らが納得していないのに、お詫びをすることは、西欧社会に代表される地域ではあり得ません。
ですから、問題点を指摘したとき、欧米の人々が謝らないことに、日本人は逆に不快感を覚えてしまうことも多くあるのです。
逆に、まずはお詫びをして、その後で調査をするという日本の行為は、その順序が逆であるのみならず、相手によっては不誠実な行為ともとられかねないリスクがあるのです。

お詫びをするとき、日本人は、そこでいきなり解決方法を提示して、どのようにリーダーシップをとって問題に対応してゆくかという具体的なステートメントは余り行いません。
むしろ、責任の所在を明確にし、誰の首を差し出すかというテーマに当事者も社会全体も注視します。
社長や関係した部門の長が、真摯に責任をとって辞任したりすれば、ちょうど江戸時代に切腹をしてものごとが納まったのと同じ効果が生まれるのです。

しかし、この行為を海外からみるとどのように映るでしょうか。
理論的には、部下の不祥事に対して、上の立場の人やリーダーが無条件に責任をとるという行為自体が、異文化では不可思議です。
それは、連帯責任という江戸時代の五人組(農家などが、納税や治安に対して集団で責任をとらされた制度)の発想なのです。
海外からみれば、リーダーは悪いことをしていないわけですから、ただ謝って頭を下げてばかりいると、組織として全体でなにか悪いことをしたのではという誤解を、相手に与えてしまいます。
上に立つ人は、現在おきている問題をいかにして解決し、未来へむけてより組織を成長させ、同じことがおきないためにはどのようにすればいいかというリーダーシップを社会に示すべきだと、海外の多くの人は思うのです。

このことが、お詫び文化が海外に誤解を与えるリスクとなるのです。
言葉を変えれば、お詫びの文化は、個人がイニシアチブをとりにくい、グループ志向の日本の組織を象徴した行為であるといえるのです。

山久瀬洋二の「その一言が!乗り越えよう異文化摩擦」・目次へ

山久瀬洋二の活動とサービス・お問い合わせ