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ワシントンでの国際会議の裏側を垣間見て

“I have just authorized a doubling of Tariffs on Steel and Aluminum with respect to Turkey as their currency, the Turkish Lira, slides rapidly downward against our very strong Dollar!”

「私はトルコからの鉄鋼、アルミニウムの輸入に対してトルコリラを基軸に関税を2倍にした。これで我々の強力なドルの前に、リラは価値が下がってゆくだろう!」
トランプ大統領のtwitter 2018年8月10日付より

人々の思惑・情報・利害が渦巻く街、ワシントン

 先月末から今月にかけて、アメリカのオンライン英語検定試験「iTEP」を主催するiTEP International社(iTEPは留学や英語でのビジネス能力試験等、様々な用途に使用される試験を運営する)の世界大会に出席しました。今年はワシントンD.C.で開催され、久しぶりのアメリカの首都への訪問となりました。
 
 会議では私を含め、世界中でこのテストを取り扱う国の会社の代表が、自らの地域での販売活動報告を行います。
 その中に、トルコのディストリビューター(Distributor=販売代理店)のサラーという経営者がいました。彼の会社はトルコの格安航空会社などとのコネクションが強く、売り上げを急速に伸ばしていることで注目されているのです。しかし、昨年は彼にとって大変な年でした。アメリカドルに対してトルコの通貨リラが大きく暴落(devaluation)したのです。アメリカとの政治的緊張、イスラム色の強いエルドアン大統領の強権政治に対する警戒感などがその原因でした。
 サラーは、その逆風の中でiTEP Internationalと交渉し、支払いを調整しながら、現地での強いコネクションをフル稼働させてビジネス英語能力テストの販売を伸ばしたのです。この努力と成果には、会場の人々も賞賛の拍手を送りました。
 
 彼はクルド系トルコ人です。
 クルド人といえば、イラクやトルコに居住し、イスラム教徒ではありながら、その強い民族意識からしばしば迫害や差別の対象になってきたことはよく知られています。そして、トルコ政府はクルド人の民族運動をテロ行為として抑圧します。対してアメリカは、イラク戦争などを通してクルド人に武器を供与するなど支援を続けていました。以来、クルド人問題は、アメリカとトルコとの溝を深めるいくつかの重要な課題の一つとなったのです。
 
 ワシントンにある、デュポンサークル(Dupont Circle)という大きな交差点にクレイマーブックス & アフターワーズ(Kramerbooks & Afterwords Café)というブックカフェがあり、私は同地を訪れるたびにそこを訪問します。Facebookにもそこで出会った一つの書籍をアップしました。同店は今でもワシントンの政界の大物も立ち寄る有名な書店で、併設されているカフェやバーには、ロビーイングを行う人々も多く集います。
 この書店と同様に、例えば有名ホテルの会員専用のラウンジなど、ワシントンD.C.では様々な場所がそうした政治的な打ち合わせに使用されています。ワシントンD.C.で活動する人々は、政治家、企業家、そしてジャーナリストや評論家など、多くが何らかの政治的利害の糸で繋がっていると言われているほど、ロビーイングや情報収集の場所がこの街のあちこちにあるのです。
 
 実は、そんなロビー団体の中でも有名なのが、トルコにあってクルド人と同居してきたアルメニア系ロビーイストの団体なのです。さて、サリーを見舞った苦境を説明するために、ここでアルメニア人について解説します。
 

トルコとアメリカの対立に見える歴史的背景と民族的確執

 アララト山はトルコの東の端、隣国アルメニア共和国にも近い高地にそびえる名山です。雪をかぶる壮麗な山は、その昔『旧約聖書』に書かれた「ノアの方舟」が漂着した場所ではないかとも言われています。
 そんな場所がアルメニア系アメリカ人の故郷です。そして、この地域にはクルド人も多く居住しています。
 アルメニアの人々の多くは、アルメニア使徒教会(Armenian Apostolic Church)というキリスト教を信奉しています。このルーツは、アルメニア人がローマ帝国パルティアやその後のササン朝ペルシアといった東方の強国に挟まれながらかろうじて独立を保っていた、キリストが活躍していた時代にさかのぼります。紀元301年に、アルメニア王国はキリスト教を国教にします。それは、世界で初めての出来事でした。その後、ローマ帝国でもキリスト教が国教となり、何度かの宗教会議を経て、キリスト教がローマの国教として体裁を整えてゆく中で、アルメニア使徒教会はローマには従わず、独自の信仰を維持しました。
 
 その後、トルコ系の勢力が拡大し、イスラム教が浸透する中で、アルメニア人もそんな歴史の波に飲み込まれます。しかし、彼らは当時のイスラム教最大の国家トルコの支配下にあっても、自らの文化と宗教を維持します。特にオスマン帝国末期には、民族運動による軋轢から強制移住や虐殺といった弾圧を受け第一次世界大戦の時期には多くのアルメニア人がトルコを追われます。その多くが移民としてアメリカに流れてきたのです。
 現在、アメリカのアルメニア系の人々は特にカリフォルニアに多く、経済的にもしっかりとした基盤を持っていると言われています。そんなアルメニア人にとって、故郷のシンボルとして慕われているのがアララト山なのです。
 
 そんな歴史的背景もあって、アメリカに居住するアルメニア系アメリカ人はトルコに強い警戒感を抱いています。アメリカ・アルメニアン会議(Armenian Assembly of America)などを組織し、トルコへの経済制裁(Economic sanction)を求めるロビー団体として活動しています。
 実は、彼らのロビー活動はイスラエルの活動と比較されるほど強力で、アメリカの中でも最も強い移民団体の一つとして注目されているのです。
 
 実際、トルコへのアメリカ政府の制裁は、アメリカのアラブ社会への警戒感と、アメリカの保守系政権が伝統的に維持しているイスラエル支援とは無縁ではなく、トルコのエルドアン大統領が、イスラム色の政策を強め、クルド人問題などを通して反米色を強めると、両国の関係が一触即発の緊張関係へと悪化してしまったのです。両国ともお互いの輸入品への関税(tariff)を引き上げ、経済戦争にも突入しています。それが昨年のリラ暴落の直接的な原因でした。クルド人とその隣人アルメニア人、そしてイスラム教国トルコとトランプ政権の利害と確執が、100年以上くすぶってきた移民問題を発火させたのです。アメリカの政策変更の背景にあるこうした複雑な状況は、なかなか日本には報道されません。
 

ワシントンを制する者が世界の政治経済を制する

 そもそもトルコは北大西洋条約機構(NATO)の重要な加盟国で、中東の大国です。伝統的にロシアの南下政策に危機感を持つトルコは、アメリカの友好国だったのです。
 我々は、ともすればアメリカと中国との経済戦争に目を向けるあまり、そんなトルコの最近の急激なアメリカ離れに対して鈍感です。しかし、中東やヨーロッパでは、これは大きな政治問題であり、経済問題となっているのです。今回、第二次世界大戦でのアメリカを中心とした対独戦線でのノルマンディー上陸作戦75年を記念した式典に集まった、トランプ大統領やイギリスなどの関係者、今後開催されるG20に集まる首脳の頭には、トルコの課題が渦巻いているはずです。
 
 クルド系の経営者サラーが、そんなアメリカとトルコとの経済戦争のあおりを受け、アメリカの商品の販売に苦戦し、それを必死で乗り越えようとアメリカの政治の中心であるワシントンD.C.での国際会議にやって来ているのです。
 そして、ワシントンでの人々のネットワークの糸をうまくたぐり利用する者が、世界での外交においてアドバンテージを取れるわけです。
 
 クレイマーブックスは早朝から深夜まで営業しています。そして、アメリカ外交の蜘蛛の糸に関係する人々にも利用されながら、書店経営斜陽の今にあっても、しっかりと経営を続けているのです。
 

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英英辞典は最強の英語学習ツールになる!

『「シャツ」を英語で説明できますか? 英語力を着実に伸ばす英英辞典活用法』近藤真治 (著)「シャツ」を英語で説明できますか? 英語力を着実に伸ばす英英辞典活用法』近藤真治 (著)
英英辞典の説明文は質が高く、英文のお手本として最適です。また、オムレツの作り方やゴルフのルール、アインシュタインの相対性理論まで英語で説明されています。そんな英英辞典を利用した英語学習法を紹介します。すでに知っている英単語を、辞典を引く前に自分で定義を考えてみて、辞典の定義をネイティブスピーカーの模範解答として答え合わせをしたり、国家・出来事・人物など、幅広い分野の語彙や表現をインプットして、英会話・英作文の力をつける活用法を解説します。

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ニューヨークの亡霊が語る中間選挙への思いとは

ニューヨーク証券取引所(PC:山久瀬洋二)

“They cultivated land, created villages and sometimes they traded with American Indians and sold what they received or produced to Europe. For example, in the early days, many immigrants in New York went into such wild land to hunt beavers as its fur was used to make hats in Europe.”

彼らは土地を開墾し、村を作り、アメリカン・インディアンと交易をして得たものでヨーロッパと交易をした。例えば、初期の頃、多くの移民たちは荒野に出てビーバーを獲り、その毛皮を帽子の材料としてヨーロッパに輸出していたのだ。
 
(近刊、ラダーシリーズ「アメリカ歴史ものがたり」より)

アメリカ人のルーツをたどる旅へ

中間選挙も近づいてきた今、ニューヨークを旅していました。そして、久しぶりに街の中を散策しました。
そこで今日は、この街のある側面を紹介しましょう。
ニューヨークを訪れる人は、摩天楼の下の活気ある街で忙しく働く人、アートやパフォーマンスの世界で個性ある舞台や作品を発表する劇場、といったダイナミックな街に期待していると思います。もちろんそれは事実です。
 
しかし、ニューヨークにはもう一つの面白い顔があるのです。
アメリカ人でニューヨークを訪れる人の多くは、まずそこに自らのルーツを探しにきます。
その昔、この街にはヨーロッパから経済的、政治的、宗教の迫害を逃れて、ありとあらゆる移民がたどり着いていました。アメリカ人の多くがその子孫です。
そして、そんな子孫のうち、17世紀から18世紀という早い時期にアメリカに移住してきた人たちが、この街の原型を作りました。
 

世界の金融の中心、パールストリートとウォールストリートとの交差点(PC:山久瀬洋二)

17世紀:オランダ人の入植と欧州との交易

ここで17世紀の話をしましょう。
まずは、現在金融街として知られるウォールストリートとその周辺、すなわちマンハッタン島の最南端近くに行ってみましょう。それは、ニューヨークがニューアムステルダムといわれていた頃の話です。その名前が示すように、ここは、オランダ人が入植して1626年に造った街です。人口は1500人にも満たず、彼らはマンハッタン島の南端でヨーロッパとの交易に従事していました。
ヨーロッパとの交易で一番人気があったのが、ビーバーの皮でした。それは帽子の皮として重宝されていたのです。ハドソン川にはビーバーがいました。ビーバーを捕獲し交換していたのが、当時のネイティブ・アメリカン、つまりアメリカン・インディアンだったのです。時には移民自身が荒野に分け入って、ビーバーを捕獲したこともありました。
ビーバーを売買していた場所は、ビーバーストリート(Beaver Street)と名付けられ、当時のままの名前で今も残っています。
 
そのすぐそばは海辺でした。そこにはオイスターがいて、その殻が転がっていたことから、今でもオイスターストリートという名前が残っています。その先は浜辺でした。そのため、現在そこを南北に走る道はWater Streetと名付けられています。
オランダ人は、アメリカン・インディアンと交易をする一方で、自分たちの街の防御のため、街はずれに木杭の壁を作りました。その壁「Wall」のあったところが、そのままWall Street という名前になったのです。通りの名前から、360年前の入植者の生活が偲ばれるのです。これは、ニューヨークが最も古かった頃の話です。
当時、ヨーロッパから新大陸に到達するには数ヶ月を要し、時には風や海流に流され、ニューヨークに入港する前にアメリカ北部などに漂着することも間々ありました。
オランダとイギリスとの交信には、半年近くの時間を要していたのです。
 
その後、ヨーロッパでオランダとイギリスが戦争を始めると、イギリスの軍艦がニューアムステルダムにやってきます。オランダ人の総督は交戦を主張しますが、住民の多くは様々な移民で、むしろ交易に影響のないよう平和裡にイギリスに植民地を明け渡すことを求めます。こうしてニューアムステルダムは、1664年にニューヨークとなりました。
最後のオランダ人の総督は、ペトラス・スタイブサンといいますが、彼の名前は、彼が所有していた農園のあったイーストビレッジに今でも通りの名前として残っています。そしてそのあたりから、オフブロードウエイやレストランなどの並ぶグリニッチビレッジ一帯は、果樹園や農園が切り開かれていました。そんなマンハッタン島の南端からずっと一本だけ粗末な道が北に伸び、オランダ人の農園のあったマンハッタン北部まで繋がっていました。その馬車道が、現在のブロードウエイです。北部マンハッタンのオランダ人は故国にあったハーレムという街からやってきました。その名前が現在のハーレムとなっています。
 

パールストリートに残るフランシス・タバーン(PC:山久瀬洋二)

18世紀:イギリスからの独立と移民の対立

イギリス領ニューヨークとなったマンハッタン。
しかし18世紀になっても、現在のダウンタウンが街はずれでした。イギリスからの課税に反対して人々が立ち上がり、独立革命がおきたとき、イギリスはニューヨークを拠点に守りを固めようとしました。
そんなイギリスに対する謀議を行った当時の居酒屋が、今も残っています。ビーバーストリートにあるフランシス・タバーンという建物は、当時のまま摩天楼の中に保存され、今でもレストランとして生き残っています。その謀議にはジョージ・ワシントンも加わっていました。1776年に有名な独立宣言が人々の前で披露されたのも、現在ニューヨークに19世紀のままの姿で残る市庁舎が建つ「コモン」と呼ばれた広場でした。
 
しかし、独立戦争が始まるとニューヨークはイギリス軍に圧倒され、占領されます。その後アメリカ各地で戦闘が続いていたとき、ニューヨーク湾に浮かぶイギリスの軍艦の中に、アメリカの人々が捕虜として収容されていたといわれています。
 
独立後、短い期間ではありましたが、ニューヨークはアメリカの最初の首都となりました。
それから50年も経たないうちに、ニューヨークはグリニッチビレッジあたりまで、移民で埋め尽くされます。ファイブポイントと言われた交差点の一帯には特に貧しい移民が多く、その中で新参者と、古くからの移民とが、利権をめぐって激しく対立していた話は、ディカプリオが出演する映画、『ギャングズ・オブ・ニューヨーク』のテーマとなっています。
ディカプリオが演じる人物が成人した頃、南北戦争がおこり、そこでもすでに富を得て、街の北に豪邸を構える人々と、島の南部に暮らす人々との対立が、徴兵制度の不平等から暴動へと発展します。その結果、多くの黒人がリンチに遭いました。暴動のあった場所は、現在のグリニッチビレッジだったのです。
 

その昔、移民がひしめき合ったファイブ・ポイント(PC:山久瀬洋二)

21世紀:対立深まるアメリカの未来は

摩天楼の街ニューヨークが今の姿に近づいたのは、20世紀前期のことでした。そして現在、ウォール街をはじめとしたロウアー・マンハッタン(Lower Manhattan)は、そこにあるニューヨーク証券取引所を中心に世界の金融市場を動かしています。
しかし、その高層ビルの底にうごめく過去の人々の物語は、あたかも亡霊のように、中間選挙を前にして二つの世論に大きく割れるアメリカ人に語りかけています。
いつまで、新しい移民とアメリカに渡り生活が成り立った人々との対立を続けているのかと。アメリカはそんな対立の中から、様々な人権への配慮を法律にし、妥協しながらそれを制度にして、現在の繁栄を勝ち取ったのではないのかと。
 

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『日英対訳 アメリカQ&A』山久瀬洋二日英対訳 アメリカQ&A
山久瀬洋二 (著)
IBCパブリッシング刊

地域ごとに文化的背景も人種分布も政治的思想も宗教感も違う、複雑な国アメリカ。アメリカ人の精神と社会システムが見えてくる!

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