異文化ビジネスコンサルタント・山久瀬洋二の履歴


私は1955年に大分県に産まれました。
幼い頃、夕方に祖母に連れられ、東京ゆきの夜行列車が通過するのを見にいくのが楽しみでした。急行高千穂。当時唯一東京まで直行していた列車です。

その後、だんだんと大人になって福岡に。九州大学では、あまり熱心な生徒ではなく、授業はよくさぼりました。19歳のときには、留年して東京に一年、ギターの練習といって結局はなにもせず、友人の下宿を点々としながら、アルバイトをしていました。

やっと大学を卒業したのが、25歳。その後東京の出版社に勤務。
そこでは、英語で日本を紹介する書籍を作成していました。どうも、最初は水が合わず、ともかく早くニューヨークに駐在させてもらおうと、念願のニューヨークへの異動は2年後のことでした。

83年から89年まで、一時帰国の時期はありましたが、ニューヨーク勤務。そのあとニューヨークで独立。ともかく食べてゆくために、アジアや日本関連の英文書のセールスマンになって、全米をドライブし、あちこちの書店や日系人などの商店に書籍を売り歩き、同時にアメリカの旅の記事をたくさん日本の雑誌に寄稿しました。アメリカでのセールス旅ガラス。この経験は今でも忘れられません。

そんなビジネスがだんだん大きくなって、ニューヨークに出版関係のオフィスを開いたのが91年。その企画の中で、日米間のビジネス摩擦と、その背景にあるビジネスコミュニケーションの問題を取材したのが、私の転機に。
CCGというその関係では草分けのコンサルティング会社と提携し、アメリカ人のコンサルタントと、問題がおきた様々な会社をまわって、日米間のコミュニケーションの問題や、人事問題、チームワークや海外戦略の立案まで、様々なテーマに取り組みました。

その仕事で、毎月何度も飛行機で全米、日本、そしてアジア各地へと飛んでまわり、今度はコンサル旅ガラスとなりました。

99年に日本のとある国際出版にかかわる会社の経営再建の話があり、その再生のために日本に帰り、その後その会社をさらに合併させ、大きくしたものの、ビジネスを理解できない、優等生の投資家と大喧嘩、勢い余って退任し、関係者には迷惑をかけました。というのも、その後、その会社は投資家の強引なリストラ等によって倒産してしまったからです。
しかし、日本に帰って、出版界の旧態依然とした言論界とは思えない排他的な構造やものの考え方に驚愕。それにあらがいながら、本来の言論や出版のあり方を小さな小さな一人になっても、しつこく模索しております。

そして、出版界へのチャレンジと同時に、落城寸前の会社から英文出版部門だけを助け出し、その会社の再生と共に、異文化ビジネスコミュニケーションの遺伝子を日本に、そして海外に残してゆこうと、今四苦八苦の努力を重ねています。

旅ガラスの性癖は今も同じ。
仕事にかこつけて訪れた各地の印象を油絵で描きながら、本の執筆、コンサル活動にいそしんでいます。

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