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日常表現の向こうに見えるミレニアムの背景

“The Japanese communication pattern is very indirect and far less verbose than what the English-speaking West is familiar with.”

(日本人のコミュニーション方法は、英語を話す欧米人から見れば、極めて間接的で言語表現に頼らないものだ)
― Cultural Atlasより

事例:親子の会話と会議での会話

「ママ、なんかお腹が痛い」
「どうしたの。熱は?」
「うーん、わかんない」
「そう、お医者さんに診てもらう?」
「そこまでではないけど。でもちょっとだるい」
「学校はどうするの?」
「今日は無理かも」

 こんな会話を、子供の頃に経験した人は多いのではないでしょうか。
この子が母親に言いたいことは、「今日は学校に行きたくない」ということですね。多くの日本人には、即座に子供の意図が伝わるはずです。もしかすると、その日学校でテストがあるので、行きたくない言い訳をしたのかもしれません。
 これを大人の会話に置き換えましょう。

「いえね。今回の提案はどうしましょうか」
「と言いますと?」
「なにせ、コストもかかりますしね」
「アウトソースせずに社内でやってみればどうでしょう?」
「いやあ、皆今のプロジェクトに大忙しで・・」
「では、今回の彼らの提案は見送りますか」
「そうですね。そうしてもらえれば助かります」

 子供と母親との会話と、大人になって会議で行うときの会話と、どれも最後に本音が出てくるロジックの作り方は同じです。
つまり、日本人の会話の方法は、まず取っ掛かりとなる一つのファクトから始まり、それをやり取りしながら本音や結論へと導いてゆくケースが多いのです。二つの例からお分かりのように、これは日本人が幼い頃から大人になるまで、親から子供へと伝搬されてきたロジックの修辞法なのです。
実は、このたわいもない会話の進め方のルーツが、なんと1400年も前から日本人に脈々と受け継がれ、思考方法や表現方法のルールとして育成されてきたということを考えてみたことはあるでしょうか。

1400年受け継がれてきた日本流「起承転結」

 ここで、1400年近く前の中国に目を向けてみます。
当時、中国はの時代の始まりでした。二代皇帝・李世民が、それまで短命な政権が入れ替わり立ち替わり交錯していた中国を唐の元に統一し、中国の文化が周辺民族にも伝搬されてゆきました。
そんな中国では、歴代皇帝の政策を書記官たちが記録し、その記録の客観性を保つために、皇帝といえどもその内容を簡単には閲覧できなかったといいます。それは、皇帝が権力を乱用して記録の客観性に影響を与えることを防ぐための制度だったといわれています。
特に、唐になって中国が内政外交ともに安定すると、書記官は記録の腕を磨くために、文章の綴り方や書体などを整えます。そこで培われた修辞法は、宮廷に仕える官僚たちに大きな影響を与えてゆくことになったのです。それ以降、文官が中国の漢字文化の担い手になってゆくのです。
 彼らは時には文章家として、時には詩人として、唐詩選などに残る多くの詩文を残しました。彼らが最も美しいとした修辞法が、まず取っ掛かりの事例を述べ、それをしっかりと補足し、さらにサイドから別の事例で補強し、最後にその土台の上に結論を述べるという、「起承転結法」だったのです。
官僚の文章のみならず、皇帝を諌めるときなどのレトリックの作り方、さらには五言絶句などの詩作にも、この方法が用いられたのです。それは時代を超えて現代まで伝搬され、実は、習近平国家主席の演説にもこの影響が見て取れます。
 そんな唐の時代に、日本からは頻繁に遣唐使が中国に派遣され、中国の文化を吸収しては日本に持ち帰りました。そして、この中国の宮廷での書類の作成技術や表現方法、修辞法が日本に伝わり、知識人や権力者の間で活用されたのです。それが時とともに、日本の風土の中でさらに独自に培養されたのが、現代の日本人のコミュニケーションスタイルとなったのです。
 では、古代中国での修辞法を代表する有名な漢詩を事例として紹介しましょう。

春眠暁を覚えず
(春の夜は短い上に寝心地がよく、夜明けを忘れるくらいぐっすりと眠りこんでしまった)
諸所に啼鳥を聞く
(ああ、あちこちで鳥が冴えずっているようだ)
夜来風雨の声
(昨晩は風や雨の音がして嵐のようだった)
花落つること知んぬ多少ぞ
(花はどれくらい散ってしまっただろうか)

 孟浩然という唐の詩人のこの作品を、高校で習ったなと思い出す人も多いでしょう。この詩で言いたいことは、寝坊したことでも、鳥が鳴いていることでも、夜の嵐でもありません。春の嵐で花が散ったのではないだろうかという思いを表現するために、こうしたレトリックを使ったのです。これは冒頭に紹介した子供と母親との会話、さらには社会人の会話事例と全く同じレトリックなのです。

欧米流「結論ファースト」とうまく使い分けて

 中国に起因するこのアジア型の表現方法が、結論を先に言う欧米の表現方法と異なることから、様々な誤解が生まれることは、すでに何度かこちらのブログでも紹介しました。冒頭で紹介した英文では、そんな日本型の表現が間接的で言葉少なに見えると記しています。その論文では中国に対しても、日本とレトリックの類似点があるように指摘されています。しかし、我々が知らず知らずの間にこうした表現をする癖がある背景に、1400年もの意識の積み重ねがあることに気付くことはあまりないでしょう。
 コミュニケーション文化の違いが世界に存在し、ここで紹介したように、それぞれの遠い昔の文化をルーツとして形成されてきたわけですから、そこで起こる誤解は、よほど注意深く対処しなければ解けないのです。
 しかも、そうした日本型のコミュニケーションスタイルがまどろっこしいということで、欧米流のレトリックを取り入れようとする動きを考えるとき、1400年以上の重い石をいきなり砕くことの危険性をも感じてしまいます。
文化は良し悪しの問題ではなく、お互いに異なることはごく当然のことなのです。むしろ、欧米の人と交流するときは、彼らのロジックを考慮し、日本人同士、あるいはアジアの人同士での交流のときは、古来のレトリックを使用する、というスキルの使い分けが必要なのです。
 この使い分ける技術を無視して、自らのコミュニケーションスタイルを否定すると、それは思わぬ消化不良と反作用を生み出し、自身のアイデンティティ・クライシスへと繋がってゆくはずです。
この課題は、次の機会にさらに分析してみたいと思います。

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