アメリカの大部分がフランスだった頃があったことを知っていますか?
18世世紀半ば、北はカナダ東部から南はニューオーリンズまでの広大な地域がフランスに属していたのです。
同じ頃、アメリカ東海岸に入植者を送り、植民地を拡大していたイギリスは、現在のペンシルバニア州、そしてオハイオ州周辺でフランスの植民地と接触、そこで新大陸の利権をめぐる小競り合いがはじまります。
1854年、フランスの植民地にイギリス領バージニアの民兵の将校としてゲリラ活動をしかけたのが、若き日のジョージ・ワシントンだったのです。「アルプス一万尺」という歌がありますが、それは当時の民兵の貧相な装備を風刺した歌を元に造られた替え歌なのです。
フランスは、17世紀からアメリカ大陸にセントローレンス川を伝って進出し、5大湖に至り、さらに新大陸奥地を探検します。
やがて、内陸からオハイオリバーなど、ミシシッピ川の支流を伝って南下をはじめ、ついにミシシッピ川本流を下り、メキシコ湾にまで到達したのでした。
メキシコ湾に面した現在のルイジアナ州。この名前の由来は、正にそんなフランスの名残、フランスの王家「ルイの土地」となるのです。
18世紀には、ルイジアナは、カナダ北部からアメリカ中西部全体に至る広大なものとなり、大陸深く進出したフランス人は、現地のアメリカン・インディアンとも同盟しながら毛皮などを輸出して入植地を拡大させたのでした。
ニューヨークから車で北に6時間。アディロンダック山系を越えると、広大な平原に入ります。やがてカナダへの入国のためのゲートが見え、そこで検問を受けカナダ側に入れば、言葉も雰囲気もがらりと代わり、ヨーロッパのどこかをドライブしているような錯覚に陥ります。
そこはカナダのケベック州。今でもフランス語が公用語です。最大の都市モントリオールのオールドタウンに行けば、伝統的なフランス料理を楽しめるレストランが沢山あります。
国境から40分も北上すれば、モントリオールの手前で、平原をまっすぐ二つに分ける大河セントローレンス川の静かな流れに圧倒されます。
この河をさかのぼれば、五大湖の一つエリー湖に至り、さらにナイアガラの滝を経てオンタリオ湖に至ります。
そこはニューヨークから五大湖に至る広大な地域で活動していた先住民イロコイ族の土地でした。
1755年、イギリスはフランスとの小競り合いは、ついに戦争へと発展します。戦争にはフランスと友好関係にあったイロコイ族も巻き込まれます。
8年にも及ぶ凄惨な戦いを経てイギリスが勝利。フランスは利権の多くを失います。そのとき、大量のフランスの難民が、五大湖からミシシッピ川を経てアメリカ南部に移住したのです。
彼らは、黒人奴隷が開発した弦楽器バンジョーを手にいれ、それを伴奏にフランス語で歌を歌い、河を伝って現在のニューオーリンズに至ります。ニューオーリンズは、ニュー・オルレアン、つまりフランスのオルレアンから来た地名です。今でも、街にはフレンチコータと呼ばれる歴史地区があり、そこでは18世紀に北から移住してきた人々が地元の素材にフランス料理の手法を混ぜて創ったケイジャン料理を楽しめます。
戦争のあと、イギリス経済はかさむ戦費で疲弊、そのつけを植民地にまわしたことが、独立戦争の原因となります。
そして、フランスも同じく国家財政が逼迫。その重税がフランス革命の導火線になりました。
1803年に、ヨーロッパでの戦争に忙しいナポレオンは、広大なルイジアナ領を新生アメリカ合衆国へ 1500万ドルで譲渡しました。これがアメリカの西への開拓、進出のきっかけとなったのです。
やがて、この地では、クレオールと呼ばれるフランス人やカリブから入植したスペイン人などを中心とした白人系の人々と、年季があけて自由を得た黒人奴隷の子孫との混血が生み出した独特な文化が育まれ、今度はそれが南からミシシッピ川に沿って北上をはじめます。
ニューオーリンズのフレンチコータを中心に、黒人のミュージシャンが産み出したジャズが、ミシシッピ川やその支流のミズーリ川を経てカンザスシティに、そしてシカゴへと拡大し、ニューヨークのハーレムで花開くのは20世紀になってからのことでした。
セントローレンス川とミシシッピ川。
一つは新大陸を東西に、そしてもう一つは南北に割く大河。
そこには300年以上にわたる、新大陸に命をかけた人々の往来の歴史があったのです。
セントルイスは、そんなミシシッピ川に面した大都会。
そこには、1965年に完成したゲートウェイアーチという巨大なアーチが川に面して建っています。
その意味するところは、ここは西部の開拓の出発点、玄関だということ。
二つの川を経由して入植した人々が、ここから陸路、あるいはミズーリ川に沿って西へと向かい、数えきれない西部劇などで語られる、開拓の物語がはじまったのです。19世紀後半のことでした。
それは同時に、開拓者の波におされ、崩壊してゆくアメリカン・インディアンの悲劇の物語でもあったのです。
(記事写真・山久瀬洋二)