“Saudi Arabia and Iran – two powerful neighbours – are locked in a fierce struggle for regional dominance. The decades-old feud between them is exacerbated by religious differences. They each follow one of the two main branches of Islam…”
(サウジアラビアとイラン。この隣国、そして強国は宗教上の支配を巡り常に激しく対立している。何十年にもわたる彼らの確執は今さらに悪化。彼らはイスラム教を代表する二つの宗派に支えられながら…)
― BBC より
サウジアラビアとイラン、対立の根源は
イエメンのフーシ派と呼ばれる組織が発射したドローンがサウジアラビアの石油施設を攻撃したことから、中東の緊張がにわかに高まりました。 ここで注意したいことは、「フーシ派」という名前はあくまでも西欧世界がテロ組織であると認定し、蔑称として使用していることです。 彼らの正式名称は「アンサール・アラー Ansar Allah」と言います。 イランが、このフーシ派と呼ばれる組織を支援していたということから、サウジアラビア、さらにイランと対立するアメリカが、イラン政府を強く非難します。
そもそも、なぜイランとサウジアラビアとは、これほどまでにお互いを嫌うのでしょうか。教科書的には、サウジアラビアにはイスラム教スンナ派の人々が多く、イランはスンナ派と宗旨を巡って対立するシーア派の国家であるからだとよく言われます。そしてフーシ派ことアンサール・アラーは、シーア派の反政府組織で、そこにイランと彼らとの繋がりがあるというのが表面上の解説です。今回紹介しているBBCのヘッドラインもそのように解説しています。しかし、本当にそれだけなのでしょうか。BBCの解説よりさらに根の深いものはないのでしょうか。
歴史的・政治的背景から見る対立の原点
ここで、歴史にスポットを当ててみます。 その昔、イランは伝統的に帝政ロシアの南下政策の脅威に晒されていました。イランの西にあって、ロシアのライバルであったオスマン帝国は中東一帯を支配していたため、ロシアの南への出口として、ロシア帝国は常にイランへの利権の確保を画策していたのです。そんなイランに油田が見つかり、イランはロシアのみならず、西欧列強全ての注目するところとなりました。 20世紀になってオスマン帝国が衰微すると、その支配地に独立運動が起こります。この独立運動を画策しながら、中東での権益の拡大を模索したのは、他でもないイギリスでした。あの有名なアラビアのロレンスなどの活動で、サウジアラビアは分断と併合を繰り返し、現在の王国となったのです。
しかしイランの状況は、オスマン帝国が衰退しても変わりませんでした。彼らは、ロシアへの対応を模索しつつ、中東に勢力を伸ばしてきたイギリスの進出にも晒されます。そして、第一次世界大戦の最中にロシアで革命が起こり、社会主義国となってソ連と国名を変えた旧ロシアは、イランに維持していた権益を放棄しました。イランは、そのままイギリスを中心とした西欧の傘下に入ることになったのです。戦後の冷戦の影響で、ソ連の隣国であるイランは、アメリカとイギリスにとって欠くことのできない戦略拠点となります。当然、油田の権益もイギリス、そしてアメリカに受け継がれ、彼らが支援する新しい王朝のもとで、イランは近代化を進めようともがいたのです。 しかし、こうしたイランで、アメリカやイギリスの利権を排除しようというスローガンのもとに民族運動がおこります。パーレビ王朝が革命で倒され、イスラム教の原理によって国を統治する反米政権が誕生したのは1979年のことでした。イランに莫大な投資をしていたアメリカは、この革命に強く反発します。
さて、サウジアラビアは、イスラム教の聖地メッカを抱えるイスラム教徒にとって極めて大切な地域を支配しています。しかも周辺はといえば、戦前はイギリス、戦後はアメリカを中心とした西側諸国と、それに対抗するソ連に支援されるアラブ社会との狭間で常に政変が絶えません。それだけに、サウジアラビアの中には過激派から穏健派まで、様々な人たちが交錯し、さらに隣国での政変や戦争のたびに政権維持への危機感に晒されます。サウジアラビアの王室はそうした足元の危機を回避するために、湾岸戦争以来アメリカ軍の駐留を許すことで、政権の安定を図ったのです。 こうした歴史的、政治的背景の違いが、この二つの隣国の対立の原点なのです。
列強諸国のトラウマに悩まされる現代世界
隣国同士が敵対するという図式は、決してサウジアラビアとイランに限ったことではありません。イランの東隣のパキスタンは、インドと袂を分かって独立して以来、インドとの緊張関係が現在まで続き、いまだにこの二つの国の間には、民間航空すら就航していないのです。インドを統治していたイギリスは、インドでの独立運動を抑えるために、インド国内のイスラム勢力とヒンドゥー教徒との対立を巧みに利用したと言われています。こうして深まった亀裂がインドとパキスタンとの分断を生み出しました。
ところで、もし今海外にライターがいて、ここでの分析と同じ視点に立って、日本と韓国との対立を描こうとしたらどうするでしょうか。 その人はきっと、このように書くでしょう。
「オスマン帝国によって南下政策を阻まれたロシア帝国は、19世紀の末には極東に目をつけた。そして、衰退している清帝国とその影響を強く受けていた朝鮮の李王朝に向け南下政策の矛先を定める。 中国への権益を維持していたイギリス。さらに、積極的に中国進出を目論んでいたアメリカは、ロシアの南下政策を恐れる日本に接近。イギリスの後押しで日本はロシアと開戦。アメリカの仲裁もあって、日露戦争は日本に有利な条件で終結。やがて、朝鮮半島は日本が支配することになった。アメリカは、日本が朝鮮半島を支配することを前提に、スペインとの戦争で奪い取ったフィリピンの支配を日本が承認することを密約。 その後、ロシアには革命がおこる。そして、新生ソ連は中国や朝鮮半島への南下政策を正式に断念。そのことで、日本が本格的に中国に進出できるようになると、イギリスやアメリカはそれが新たな脅威に。やがて、その対立が太平洋戦争に発展し、戦後に朝鮮半島は南北に分断。 冷戦の中で、アメリカは韓国を重要な戦略拠点と位置付けた。そんな韓国に民主化の動きが高まり、独裁政権が崩壊。しかし、北朝鮮との緊張関係が続く中、韓国にはイランのような反米政権は生まれず、いまだにアメリカ軍が駐留。これは日本も同様。 ただ、民主化した韓国の人々は、過去の歴史的経緯から、西欧列強に変わって朝鮮半島を自国の安全のために支配した日本に対して強い敵愾心を抱き続ける」
こうライターが書いたとして、私が先に解説したイランとサウジアラビアとの対立の図式と比較したとき、最後の部分、つまり韓国も日本もアメリカ軍に依存している状況を除けば、様々な類似点が発見できるはずです。
隣国はよく対立するものです。そして、その対立の背景は、民族同士、宗教上の分断だけが原因ではないことが、これでお分かりになるかと思います。 我々は、西は中東やアフリカ、東は朝鮮半島まで、いまだに19世紀から20世紀にかけての西欧、そして最終的にそれに追随した日本を含めた、当時の強国の利権争いの後遺症から抜け出せずにいるのです。
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『日本現代史【増補改訂版】』ジェームス・M・バーダマン (著)、樋口謙一郎 (監訳)いまのニッポンを語るときにぜったい外せないトピックを大幅に追加し、簡単な英語で明解に説明!いったい日本はどこに流れてゆくのか? 日本の現代史 (マッカーサーからアベノミクスまで) に対する海外の見方を説明し、海外の類似した状況と比較することによって、日本が今どのような状況にあるかを簡潔に解説。