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テロを憎みつつ、そこに至った縺れた糸を振り返ろう

【海外ニュース】

Spain was hit by its worst terrorist attack in more than a decade on Thursday, when a van driver plowed into dozens of people enjoying a sunny afternoon on one of Barcelona’s most famous thoroughfares, killing at least 13 people and leaving 80 bloodied on the pavement.
(New York Timesより)

スペインはこの10年で最悪のテロに見舞われた。木曜日、バンの運転手がバルセロナの目ぬき通りの午後の日差しを楽しむ人々に突っ込み、歩道は13名以上の死者、80名の負傷者に埋め尽くされた

【ニュース解説】

ヨーロッパでまたテロがおきました。
モロッコ人のイスラム過激派グループがバルセロナで車によって人々を殺害したのです。こうした事件がおきるたびに、なぜそこまで憎しみの連鎖がと多くの人は当惑します。
我々は、テロ行為を弾劾しながら、同時にイスラム教徒の間に過激な思想が広がった背景について、改めてもつれた糸を紐どくことが必要です。

イスラム教徒の多くが西欧社会に抱く不信感の原点はパレスチナ問題です。戦後イスラエルがパレスチナに建国したとき、そこに住んでいたアラブ系の人々が土地を奪われ難民となったことが全てのはじまりでした。
そのときに、イギリスもフランスも、そしてアメリカも、イスラエル寄りの政策をとったことが、アラブ社会を刺激したのです。

さらに、冷戦時代のパワーゲームに翻弄されたイスラム教諸国の実情を思い出さなければなりません。その象徴的事例が、アフガニスタン紛争です。

冷戦が熱い戦争になった事例として特に記憶されるのはベトナム戦争でしょう。泥沼化したベトナム戦争からアメリカが離脱したのは 1973年のことでした。しかし、アメリカのベトナムからの撤退で熱い戦争が終わったわけではありません。5年後の 1978年、もう一つの軍事大国ソ連がアフガニスタンに侵攻したのです。
それは不安定であったアフガニスタンの社会主義政権を強化することが目的でした。アフガニスタンでは、17世紀以降様々な政権が興亡を繰り返していました。そして 19世紀には、中央アジアに進出してきたイギリスの保護国となったのち、王国として独立しました。

第二次世界大戦が終わり、イギリスが撤退すると、アフガニスタンでもクーデターがおき、ソ連の支援を受けながら社会主義国家の建設を目指しますが、政権は不安定でした。特に、社会主義が宗教を否定することから、政権はイスラム教徒の反発をかってしまいます。イスラム教徒を自国にかかえるソ連としては、アフガニスタンの社会主義体制をなんとしても守り、イスラム教徒の反政府運動がソ連国内に飛び火することを防ぎたかったのです。かつ、隣国パキスタンはアメリカよりの国家でした。ソ連としてはアメリカの影響も同時に削ぎ落としたかったのです。
そこでソ連はアフガニスタンを安定した衛星国家とするために、指導者を殺害し、傀儡政権を立てたのです。反発した人々はゲリラ戦を展開して、ソ連に抵抗します。実は、この戦闘を中東諸国のイスラム教の民兵が支援していたのです。アメリカもアフガニスタンの反政府活動を支援し、武器を供与します。
ベトナム戦争に続き、アフガニスタンの内戦も、アメリカとソ連という二つの超大国の代理戦争となったのです。

皮肉なことに、2001年にアメリカでおきた同時多発テロの首謀者オサマ・ビン・ラディンもこのゲリラ活動に参加し、アメリカから武器の供与を受けていました。それはちょうどイスラム革命の結果、反米政権ができたイランと敵対したアメリカが、一時的にイラクを支援した経緯と類似しています。イランに対しては、アメリカとソ連の利害は一致していました。
しかし、アフガニスタンでは両者は強く反発しあったのです。これは、国際政治の利害の複雑さを象徴する事例といえましょう。

アフガニスタンはベトナム戦争と同様に泥沼化し、最終的にはソ連軍が撤退することになります。1989年のことでした。ソ連軍なきあとのアフガニスタンで主導権を握ったのが、イスラム原理主義者タリバンだったのです。
その2年後におきた湾岸戦争でアメリカがイラクに侵攻すると、アフガニスタンでソ連と戦っていたイスラム原理主義者の敵意がアメリカに向けられるようになります。こうした動きが、アメリカとイスラム社会の確執を決定的なものにしていったのでした。

アフガニスタンでは、ソ連が侵攻していた時期、反政府活動に激しい弾圧が加えられました。数えきれない地雷が埋められ、村々の井戸には毒が撒かれ、人々の生活は壊滅的な打撃を受けたのです。また、14歳以上の男性の人口が極度に減少するまでに掃討作戦が展開されたため、国を支える労働力も消耗してしまったのです。

このように、冷戦に翻弄された人々は、アメリカにも、ソ連(ロシア)にも強い不信感をいだきました。怒りの連鎖が、テロを生み出す苗代となったのです。
ソ連がアフガニスタンから撤退したのが 89年。その後、一時はイラクを支援していたアメリカが、イラクがクエートに侵攻したことを契機に湾岸戦争をおこし、イラクを攻撃します。
サダム・フセインも、オサマ・ビン・ラディンも、ある意味でアメリカが支援し、育てた独裁者であり、テロリストだったのです。

このように、中東情勢は 19世紀以降の列強の政治に翻弄された複雑な経緯があり、そこの住民は多大の犠牲を強いられてきたのです。その子孫たちが、テロという行為で復讐に走っているのです。もちろん、無実の人を殺戮するテロ行為は許されないものの、我々も過去をしっかりと見据え、中東やアラブの人々と向き合ってゆく姿勢を持つことも、今こそ必要なのではないでしょうか。

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『海外メディアから読み解く世界情勢』山久瀬洋二日英対訳
海外メディアから読み解く世界情勢
山久瀬洋二 (著)
IBCパブリッシング刊

海外ではトップニュースでありながら、日本国内ではあまり大きく報じられなかった時事問題の数々を日英対訳で。最近の時事英語で必須のキーワード、海外情勢の読み解き方もしっかり学べます。

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