ブログ

一つを求める文化と、多様な答えを認める文化

〜日本の英語教育を見詰めながら〜

「あなたはこの問いにどう答えますか?」

あるアメリカ人の友人が私に問いかける。

「駅で会いましょうと英語でいうとき、See you at the station. というべきか、See you in the station. というべきか、それとも See you by the station. が正しいのか。どう思いますか?」

私は最初彼の問いかけの意味がわかりませんでした。
いろいろと思いを巡らしはしたものの、結局、

「そりゃ See you at the station. じゃないの」

と怪訝そうに答えます。
すると彼はニコリとして、

「いえね。この3つどれも正しいのではないのかな」

確かに、我々は昔英語のテストでよくこの手の問題に悩まされました。「正しい前置詞を選べ」という中学や高校でのおきまりのテストで。
でも確かに、「駅で会いましょう」というとき、駅の前なのか、駅の建物の中なのか、あるいは駅のすぐ横なのかで様々な答えが考えられます。

「確かにね。そもそも駅で会いましょうという表現自体が曖昧なのですね」

彼のコメントを受けて、私はそう問いかけます。

「そう。でもこれは日本人が最も一般的にやっている英語の学習方法なんです。一つの答えに最初からしぼって定義してしまうという」

「だから、会話でもどの前置詞だったかななどと考え過ぎ、話すことそのものができなくなる」

「その通り。むしろ駅で会いましょうを See you at the station. と言ったら、その後すぐに、駅のどこにしようかといった質問を返すべきですね。そしてそこからやり取りをしながら、最終的に駅のどこどこで何時にというアポイントメントが成立するわけです。この会話の流れこそ学ぶべきで、at か in か選ぶことに集中するのはナンセンスきわまりないですよ」

ちょっと考えたあと、私は、

「日本人はなぜか一つの答えを選びたがるようですね。しかも完璧なる一つを」

とコメントします。

「そもそもそんなものってあるのですか。黒い石だって光りの当たり方では白く見えるし、夕日が差し込めば赤く光るかも。パッケージで与えられたものだけを答えとしたり判断の基準としたりすることは危険ですよね」

「いえね。日本は定食の文化なのかもしれません」

「確かに。例えばアメリカのレストランなんて、お客さんが注文の主導権を握って、イチゴをスライスして横においてくださいとか、卵は二つにしてねとか、レストランにどんどん注文をしますよね。日本ではそんな光景はみたことない。高級なレストランになればなるほど、最初からメニューは決まっていて、お客さんはただ黙って出されたものを楽しみます。ここでも、チョイスは一つなんです」

選ぶ文化と与える文化。そのどちらにも長所と短所があるのは当然のこと。
ただ、語学の学習においては、その短所が日本人の実践的な語学力の育成にブレーキをかけていることは事実かもしれません。
多様な表現方法を積極的に受け入れ、自らも自分の個性にあった多様さの一つとして表現をチョイスし相手に伝えるという、世界で常に行われているコミュニケーションから日本人が疎外されるのは、長年に渡って培われてきた「一つの正解」に縛られた英語教育のせいかもしれません。

「私はニューヨークの駅、グランドセントラルターミナルで待ち合わせるとき、See you at the clock on the information center なんていいますよ。これが一番具体的なんです。だって、コンコースの中央にある時計は誰でも知っているから」

「でもそれも一つの正解じゃないですよね。例えば、I will be in front of the clock at concourse. See you there. でもいいのですね。いくらでも多様な表現方法があるのですから」

「そうそう。その通り。実は多様にした方が簡単なんです。一つの正解だと、それを必死で暗記しなければなりません。でも、多様であれば、その場で知っている知識を総動員してクリエートできるわけですから」

確かに、語学はそのようにして学べば上達も早いはず。
多様な選択を認める文化の長所は、それぞれの個性や意見の違いを積極的に認めること。表現方法が多様になれば、それだけ会話も楽しくなるはずです。

これこそが、日本の英語教育の課題の一番奥深いところにある問題なのかもしれません。

山久瀬洋二の「世界の心の交差点で」〜コミュニケーションと誤解の背景〜・目次へ

山久瀬洋二の活動とサービス・お問い合わせ

PAGE TOP