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『オッペンハイマー』の公開からみえてくるもの

We call upon the Government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all the Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(吾等は日本国政府が直に全ての日本軍の無条件降伏を宣言し、かつ右行動における同政府の誠意につき、適当かつ充分なる保障を提供することを同政府に対し、要求する。右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる壊滅あるのみとする)
― ポツダム宣言の最終項(13項)より

原爆投下に対する日本とアメリカとのとらえ方の違い

 原爆を開発し、広島と長崎への投下へとつながった科学者オッペンハイマーの生涯を描いた映画が、8か月遅れて日本で上映されることになったとき、イギリスのBBCがそれをセンシティブな決断だとして、ニュースで取り上げました。
 映画では当時のアメリカの事情に翻弄され、さらに戦後の冷戦での核開発競争のなかで苦悶するオッペンハイマーの姿に焦点があてられていたものの、BBCでは映画を通して、キノコ雲の下の地獄のような状況への配慮がないことに対する視聴者の不満も紹介されていました。
 
 ただ、エノラ・ゲイで投下のボタンを押した兵士や、遠く南の島から司令を出していた人々に、凄惨さへの実感がどれだけあったのかは今でも疑問です。BBCのインタビューに応えて、プロジェクトが成功したことを喜び合う人々の姿を見て気分が悪くなったというコメントがあったことも印象的です。
 そこで、この映画が公開されるにあたって、改めて原爆と戦争というテーマについて冷静に考えてみたいと思います。
 
 原爆の投下という行為を考えるときに、日本ではそれをアメリカが日本人、特に一般市民に対して行った残虐な行為だととらえる人が多くいます。対して、アメリカや世界の多くの人々はというと、戦争を終わらせるためにこの方法を選ばざるを得なかったという意識が一般的です。原爆投下という行為への非難と肯定とで、二つの対照的な反応があるのです。
 
 肯定論は、アメリカでは知識人の間でも一般的で、その背景には一定の説得力があることも知っておきたいものです。
 第二次世界大戦末期には日本軍の頑強な抵抗があり、もしアメリカ軍が日本に上陸した場合、双方にどれだけの犠牲者があり、実際に完全に日本の抵抗を抑え込むことが可能かどうかわからないという恐れが、当時のアメリカ軍、さらには指導者の中にありました。ゲリラ戦になった場合、圧倒的な兵力と物量を誇るアメリカ軍でも、確実で完璧な勝算への図面はひけません。アメリカ軍が後年のベトナム戦争で経験する悪夢は、まさに1945年当時のアメリカ軍がもっていた脅威にも通じるものなのです。加えて、朝鮮半島やシンガポールなどに、無傷の日本軍将兵が何万人もひかえていたことも事実でした。
 

西側と東側の対立のなかで問われなかった日本政府の責任

 一方で、1945年2月のヤルタ会談での密約に従って、ソ連は日本に参戦してくることになっていました。そうした場合、日南海岸に上陸すると想定されていたアメリカよりも早い段階で、ソ連は樺太から北海道に上陸してくるかもしれません。
 また、ソ連軍が旧満州を制圧することはさほど困難ではないということから、その直後に彼らが朝鮮半島から九州北岸や山陰へと迫ってくることも考えられました。戦後のソ連との対立を予想していたアメリカは、日本との和平を一刻でも早く実現させて、日本を自らの影響力の中に保護することで、日本の中にソ連の傀儡国家ができることだけは避けたいと思っていたのです。
 
 巨視的にみれば、資本主義と共産主義との対立こそが20世紀の課題で、当時の日本やドイツは、資本主義社会の中で成長したがん細胞なのです。
 つまり、軍国主義というがん細胞さえ取り除けば、日本はアメリカやイギリスと同様、資本主義の価値観を共有できる仲間になるわけです。そのプロセスを急ぐために、アメリカは日本への原爆投下という大手術を試みたことになります。
 しかしその結果、14万人、投下後の死者も含めれば20数万の人々の命が残酷な閃光で奪われ、後遺症や被爆者という差別に悩まされる人々の苦しみが残ることになりました。戦争とは軍人同士のチェスゲームではなく、罪もない市民が巻き込まれ苦悶することは、今ガザやウクライナで続いている惨劇をみれば一目瞭然です。
 
 であれば、一つだけ強調しなければならないことがあります。
 1945年7月26日、日本に対して降伏を求めるポツダム宣言が発表され、日本が受諾しない場合、日本は迅速で徹底した破壊に見舞われるという声明が出されたとき、それを交渉のテーブルにつこうともせず黙殺しようとした日本政府の責任を、日本の世論がそれほど問いただしていないことです。この黙殺が招いた結果が原爆投下であるということは間違いのない事実です。
 
 戦争はどちらが正しく、どちらが間違っているかを問いかけようとすると、長い過去へと遡り、因果関係の連鎖の紐を解いていかなければなりません。それはある意味必要なこととはいえ、虚しい努力です。ですから、戦争の原因にはどちら側にも課題があったとしたうえで、それをどのように終わらせるかという手段にも、それぞれの言い分が残るわけです。
 アメリカの原爆投下の責任という以上に、自国民を「迅速で徹底した破壊」のリスクにさらした当時の日本政府の責任を追求することを、タブーとまではいかないにせよ、多くの人が躊躇していることは、残念なことといえましょう。
 

戦争による市民への無差別な殺戮行為の是非を問う

 原爆が投下されず、戦争が長引いた場合、おそらく今平和を謳歌している我々の多くは生まれてこなかったでしょう。また、ソ連による日本への影響力の行使のなかで、東ヨーロッパで過去に、そして現在でも北朝鮮でおきていることが、日本でも当然おこり得たはずです。
 無差別に市民を殺戮することへの怒りが原爆という武器への非難につながるべきで、それは原爆に限らずあらゆる先端技術による兵器開発に課された問題なのです。
 
 ただ一つだけ、オッペンハイマーや当時のアメリカの指導者に問いかけたいことは、あなた方はどんな理由があるにせよ、この爆弾を使用したらどのようなことが被爆地で起こるのかわかっていて実行したのか、ということです。
 この問いは、アメリカという国家だけではなく、戦争を行う人類すべてに投げかけたい一言です。
 映画『オッペンハイマー』の公開にあたって、我々が考えなければならないことについて、ここにまとめてみました。
 

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