「世界の心の交差点で」〜コミュニケーションと誤解の背景〜

謝る文化、そうでない文化


アメリカに出張中、現地のビジネスパートナーから夕食に招待されました。
そこは太平洋に面したステーキハウスで、アメリカのレストランらしく、席に案内する人、ウエイター、料理を運んだりさげたりする人とちゃんと分業され、ダイニングは既に大勢のお客で賑やかでした。まあ、その地域での高級レストランといても差し支えありません。
予約していたテーブルに案内され、私はTボーンステーキ、招待してくれた夫婦も、私と共に招待された他の友人も、それぞれ同じような注文をウエイターにしたのです。
そこでのちっちゃなハプニングが、正に異文化を象徴した出来事として印象に残りました。

ウエイターが注文をとってしばらくして、料理が運ばれてきたときのことです。
ホストのビジネスパートナーが料理を持ってきた人にクレームをいいます。

「おいおい、僕のステーキ、ウエルダンでお願いしたはずだよ」

すると運んできた人は、

「おっと、そうだったの」

「そうだよ」

「じゃあ、もうちょっと熱を加えようか?」

「たのむよ」

「OK、安心しな」

「信頼してるぜ。頼んだよ」

こうした会話のあと、配膳係のおじさんは、そのステーキを持って、再びキッチンへ。
それをみていた、オーダーをとったウエイターが、

「どうしたんですか?」

それに対して、私のビジネスパートナーは、

「いやいや、肉がミディアムレアできたんだよ。だからまたやり直してもらったんだ」

「おう、そうだったんですか」

こういって、二人はにこやかにジョークを交えて談笑します。

そんな一連のやりとりを横からみていて私は、心の中で思いました。
これが日本だったらどんな会話になっているかなと。

「ちょっと、ねえ。焼き方を頼んだはずだよ。ウエルダンだと」

「あ、そうでございますか。それは申し訳ありませんでした」

「こまるなあ、ちゃんとオーダーを通してくれないと」

そこにウエイターが登場して、

「お客様、誠に申し訳ありません。すぐにウエルダンにしてお届けしますので」

「まあね。ちゃんとしてくれればいいんだけど」

「本当に申し訳ありません。ただいますぐに」

こんな会話になっていたのではないかと思うんです。
しかも、誰もが真面目な顔をして。
アメリカでの光景は、最初から最後までなごやかで、笑いすらありました。しかもサービスを提供する側からも。
この意識の違いが、海外で仕事をするときに、思わぬ苛立や不快感を双方にもたらすのです。
謝ってほしい日本人と、「威張りくさって、なんだい、人をなんだと思っているんだ」と不快に思うこちらの人と。
しかも、日本人の多くはこうした対応をされると、いつものようにうまく謝ってもらえないので、どぎまぎして、クレームを和やかに話し合うことなどできません。だから、だんだんとイライラして、最後はちょっと不快な顔をしたり、いきなり苛立ってみたり。
こうするとますます相手は意図が伝わらず誤解が深くなるばかり。

海外でクレームをつけたり、逆にクレームを受けたりするときの対応は、日本のそれと大きく異なります。
特に、欧米では、人と人とは対等という基本原則で話し合いますから、頭ごなしの怒り方は却って相手との溝を深めてしまうのです。
もちろん、ステーキをもってきたとき、その油が跳ねてお客の服を汚したりというどうしようもないミスがあったりしたときは、彼らも真摯に謝ります。しかし、そんなときでも、お互いの対応の方法は、交渉であって、上下関係ではないのです。

レストランでの小さな出来事。そこに思わぬ異文化を、心の交差点での思いの違いをみたのでした。

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