“Indian newlyweds came to Christchurch with a dream. On Friday, that dream died.”
(クライストチャーチに移住してきたインド人の新婚夫婦の夢が、金曜日に死に絶えた。)
― CNNより
「若きウェルテルの悩み」から広がる連鎖反応の波
このヘッドラインは、先週末に発生したニュージーランドでのテロ事件で犠牲になった、インド系の女性と彼女の夫の苦しみを報道した記事です。
1774年に発表された「若きウェルテルの悩み」というゲーテの名作には、この作品にまつわる逸話が残されています。それは、主人公が自殺したことから、この小説を読んだ若者が共鳴して自殺をした、というチェーン・リアクション(連鎖反応)が起きたことです。 このことから、例えば青少年の自殺事件が起こり、それが報道されると、その報道の影響を受けて同様の事件が拡散することを「ウェルテル効果」と呼ぶようになりました。
シャンソンの中にSombre Dimanche「悲しい日曜日」という曲があります。この曲は1935年にレコーディングされ、世界中でヒットした名曲です。ただ、この歌詞が、亡くなった恋人を想って自殺を決意するまでの女性の気持ちを語っていることから、この曲を聴いた人の自殺が絶えず、曲が最初に発表されたハンガリーでは放送禁止になったといわれています。これも、「ウェルテル効果」の事例の一つです。
テロリズムにも及ぶ「ウェルテル効果」が伝播するネット社会
2011年7月、ノルウェーで政府庁舎が爆破され、その後近郊のウトヤ島で銃乱射事件が発生し、77名の命が奪われるというノルウェー史上最悪の事件が起こりました。アンネシュ・ブレイビク受刑者による単独犯行とされています。ブレイビク受刑者は、キリスト教を信奉し、イスラム教徒などの移民を許容する多文化共生に対して憎悪を抱き、犯行に及んだといわれています。 今月15日にニュージーランドで発生した、イスラム教のモスクが襲われ、50人もの命が奪われた銃乱射事件は、このノルウェーのケースと似ていると指摘されています。 ニュージーランドもノルウェーも自然が豊かで移民にも開放的、そして社会制度も整った平和な国家です。人口も共に500万人前後という、こぢんまりとした国である点も共通しています。人々は、そんな平和で美しい国で起こった、人種偏見に基づく凄惨な事件にショックを受けているのです。
銃の乱射という意味では、同様の事件がアメリカでは極めて頻繁に起こっています。しかし、それらの全てが、人種的偏見や政治的動機によるものというわけではありません。ただ、銃を乱射するという行為が報道されるたびに、同様の事件が拡散することは事実です。 「ウェルテル効果」は自殺だけでなく、他人を無差別に殺害するテロ行為にも当てはまるということが、今回の事件で浮き彫りにされたのです。
この事件の背景を考えるとき、1774年、さらには1935年と現在との大きな違いを見せつけられます。それはいうまでもなく、現在がネット社会であるということです。インターネットを検索すれば、ほとんど全ての情報を得ることができます。今回のように、Facebookなどのソーシャルメディアが社会的な影響を危惧し、危険な情報を削除したとしても、一度ネットに上がった情報は瞬時に世界中に拡散します。 また、よくいわれることですが、インターネットは個人が求める情報をどこまでも追求できるという特性があります。人々は、インターネットはインタラクティブ(双方向)な情報交換ができると評価しますが、実際は極めて一方的な情報の供給源なのです。自分にとって興味があり、心地よい情報のみを追いかけ、それを批判し、反対意見を掲載する情報源には立ち寄らなくても、自分の望む世界だけでネットワークが完成できるのです。 こうしたインターネットの特性が「ウェルテル効果」をより活性化させ、人々の心に負の連鎖を引き起こすのです。
相対する価値観が共存し、狂気に打ち勝つ社会を育てるために
皮肉な現実を知らなければなりません。 それは、先に触れたニュージーランドもノルウェーも、似たような国家であるという現実です。風光明媚であたかも童話の世界のような二つの美しい国というイメージは、実は極めて対照的なリスクに直面しているのです。それは、美しく民主的であればこそ、そこに住む人々は世界の価値観に開かれた心豊かな人でありたいという理想と、美しい国であればこそ、そこは自分たちだけの国で、よその文化に汚されたくないというエゴイズムとが生み出す、対照的な価値観の相違が共存しているという現実です。
これは他人事ではありません。日本人の中にも同様の二つの価値観が共存しているはずです。そのことが強い歪みとなったとき、こうした銃乱射事件のようなテロリズムが起こるのです。 まさか日本では、と思う人も多いでしょう。しかし、これはニュージーランドでも同様だったのかもしれません。まさか自分の国では、とニュージーランドの人々の多くは先週までそう思っていたはずです。
京都はもうすぐ桜に覆われます。日本の最も美しい瞬間です。そんな京都に、世界中から観光客が押し寄せます。そして、海外の人たちが着物を借りてコスプレを楽しみながら、京都を散策します。 それを見たとき、京都の風情が損なわれると一瞬顔をしかめたとき、そのはるか延長に、今回と同様の事件が予想されるのです。労働者が不足する日本が門戸を海外に開き、世界中から労働者が日本にやってきたとき、そして、そうした人々が日本の静かな地方都市にも浸透したとき、「ウェルテル効果」の悪魔の手が日本のとある個人を掴み、同様の事件が起こらない保証はどこにもないのです。 そして、日本人がそのような感情を抱いたとき、そこに来た移民にも同様の悪意が芽生え、同じようなテロリズムへと発展しないという保証もないのです。
自分たちの文化を守り抜きたいという意識は、悪いことではありません。しかし、文化を守りたいという意識が、海外の文化や多様性を排斥したいという誘惑と隣り合わせになったとき、思わぬ狂気が社会を襲うのです。 そんな狂気の誘惑に打ち勝つ、強い正義感を教育現場が育てることができるのかは、我々にとって今最も考えなければならない未来への課題といえそうです。
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