過去にその国がしたことに、今の人が責任があるかどうか。それは日本を取り巻く国々との摩擦をみたときに、いつも考えさせられる課題です。
最近アメリカで、台湾出身の陳さんという友人と、この点について話したことがあります。陳さんはアメリカ西海岸に長く住み、いわゆるグローバルな企業に勤務している人で、その見方は私よりはるかにドライでした。
私は、以前ある中国で現地の人が、私が日本人だとわかった瞬間に反日感情を露にした経験を語ったのです。
陳さんいわく。
「ねえ。だってさあ。君は戦争の時、生まれていなかったんだろ。どうして君がその責任を感じなければならないんだい?」
彼はビールを飲みながら、そして笑いながら私にそう言いました。
「だって、考えてもみてよ。僕は台湾生まれだよ。親父は戦争経験があって、あまり日本のことをよく思ってはいない。それは彼らの世代さ。しかも、我々は誰だってどこに生まれるかなんて選択できない。だから、手の届かない過去のことで、君が何か言われるのは筋違いだよ。それって、下手すると公民権法にも関わることじゃない?」
公民権法は、アメリカにあって、人をその人の変えることのできない背景をもって差別してはいけないという法律です。例えば、人種、国籍、肌の色、宗教的背景などなどがそれにあたります。
「陳君。それがアメリカでおきたことなら僕もよくわかる。でもこの経験は中国での経験なんだよ。もちろん、公民権法は中国には適応されず、意識も大きく違うはずだし」
「まあ、君も運がわるかったんだよ。中国は大きな国でいろんな人がいるからね」
すると、そこにもう一人、リラというマレーシア系の人が話に加わりました。
「でも陳君、例えばこうは考えられない?今の私があるのは親がいるから。つまり過去があるから。そして親の世代の影響を受けて、教育を受け育てられた。だから、過去に全く無関心でいるというわけにはいかないのよ。日本は他の国を戦争で傷つけた。傷つけられた人はその負の遺産からスタートして子供を育てなければならなかった。それが我々の世代なのよ。逆に日本は戦争に負けて被災したけど、元々アジアを侵略して様々な富を国内にもってきた。その遺産は戦争で失ったわね。でも精神的遺産を親の世代はもっていた。だから、子供もその影響を受けないはずはないわ。であれば、矢張り、人は過去のことに無関心でいるわけにはいかないはずよ」
「リラ。それはそうだけど、そんなことを言っていたら、いつまでも物事は前には進まないよ。例えば、アメリカで黒人系の人が白人系の人に、お前ら200年前に俺たちに何をしたか知っているかって詰め寄っても、意味のないことと同じじゃない」
「そうは言えないわ。アジアの問題はまだ親や祖父の世代の問題なの。しかも、アメリカのように長い年月をかけ、法律を造ったりして癒してきた問題じゃないわ。生々しい問題なの。それに例えば、第二次戦争中に日系人が収容所に入れられたケースなどは、アメリカでは大統領が正式に謝罪し、補償も履行されたわ。でも日本の行為はずっと曖昧だった。アジア全体に火が広がると大変な問題になるから、韓国への対応だけが表にでたとき、他の国にそれが拡大しないように、政治的にブロックした。でも多くの人は、そのことを知っているのよ」
二人の話を聞きながら、私は改めて実感します。
確かにアメリカに長く住む陳さんのリアクションように、アメリカを中心とした欧米のコミュニケーション文化は過去より未来を大切にする文化。それに対して、最近渡米してきたリラのいうように、アジアを中心とした地域はより過去を大切にし、過去の土台の上に未来を築くことに注力する文化があるということを。
だから、アジアでの過去の問題への対応は、欧米の人同士が考えるように簡単ではないのです。
私も議論に加わりました。
「例えば、私個人はリラのいうように、親の世代のことに全く無関心で、無責任でいられるかというとそうは思わない。確かにリラのいうことには一理ある。でも、陳君のいうように、ただ私が日本人だからといって冷たい対応をされたり、色眼鏡で見られたりするのはフェアじゃないと思う。政治が解決できない問題が、個人に及ぶのは正直かなわないね」
「そうだよ。僕は台湾に生まれ、日本嫌いの親の元に育ったけど。君個人に対してなんら偏見はない。でも多くの人は過去を話す時、それが個人攻撃にまで及んでしまう。ナショナリズムってやつかもしれないが、それは愚かなことだよ。個人と政治や国、そして歴史を混ぜこぜにすることは危険きわまりないと思うけどね。今、日本で反韓デモが横行しているっていうけど。あれはそうした意味からもいただけないね。どうだいリラ」
「ええ、それはとてもよくわかるわ。例えばアメリカと中東の問題でも、アメリカ人が個人としていやな思いをしていることは多くあるかも。でもね、加害者って意外と過去に対して鈍感なのよ。それが個人の態度などから感じられるから、ついついリアクションがでてしまう面もあるんじゃないかしら」
The wearer best knows where the shoe wrings him.
このフレーズは、靴を履いている人しかその痛みはわからないということから人の痛みは他の人にはなかなかわからないのだと説くフレーズです。
私の苛立も、陳さんやリラの主張のどれも正しく、一理あるというのが、過去の責任と個人の問題を語る上の矛盾であり、課題かもしれません。
ただ、陳さんのいうように、そこにとどまっていると何も前に進まないというのは確かに事実。お互いに、色々なものを飲み込みながらも前に進む知恵が今求められるというわけです。
そして、今回の西海岸での会話のように、海外から少し距離をおいて、様々な視点から今の日本のおかれている状況をみるのも、大切なことなのではないでしょうか。