Ferguson Update. A Peaceful Thanksgiving
(St Louis Post Dispatchより)ファーガソンの最新情報。感謝祭は異常なく
アメリカはミズーリ州の郊外にあるファーガソンで、マイケル・ブラウンという黒人少年が白人警察官に射殺され、その白人警察官が訴追されなかったことから、地元では抗議の暴動がおきたことは、日本でも報道されています。
折からの寒波の中、街は一時騒然。人種間の緊張と、鬱積する黒人系の住民の怒りがどう拡大してゆくか、まだ予断を許しません。
犯罪者と誤認してマイケル・ブラウン少年を撃った警察官の行為が正当だったのかどうか、過剰な攻撃ではなかったか。今後も様々な角度からの調査は続きます。しかし、少なくともミズーリ州では、法的に警察官は無罪という判断がくだされたのです。
そんな中、ある人からアメリカでの人種差別について質問を受けました。そのやり取りをここに紹介します。
「アメリカでは今でも黒人と白人との対立が深刻だね」
「というより、貧しく犯罪率の高い地域に住む人と、そうでない人との対立が常にくすぶっているという方が正しいんじゃないだろうか」
「でも差別は矢張り根強いんでしょ」
「アメリカは巨大な実験場だからね」
「実験場?」
「世界中から移民が集まり、同じ社会の中で暮らしてゆこうという実験さ。日本にはない壮大な実験。だからこそ、今でも不幸な事件がおきてしまう」
「それにしても、こうした事件は黒人系の人が多く住む地区で頻発しているように思えるんだけど」
「他の移民グループとは違い、黒人系の人は元々人権が抑圧されていたこともあって、社会的弱者が多かった。アメリカで全ての人に対して平等な権利が保証されたのは60年代になってからのこと。でも、その後も彼らの多くは経済的弱者として取り残されてゆく。困窮すれば犯罪がおきる。そうすれば益々偏見の対象になるという悪循環があることは事実かもしれない」
「特に今回みたいな白人系の警察官との対立は深刻だね」
「お互いに緊張して接していると、思わぬ誤解や、偶発的な悲劇がおきてしまう。白人系と黒人系に限ったことではない。例えば、犯罪率の高い地域で警察官が不審な車を止め、職務質問したところ、運転手が胸のポケットに手をいれた。警察官はピストルだと勘違いして相手に発砲したところ、実は身分証明書をだそうとしただけだったという事件もおきている。アメリカでは、こうした悲劇による警察などによる賠償額も相当な額になっていると報道していたよ」
「怖いことだね」
「でも、それだからといって、それをアメリカ社会への批判材料にしてしまうのはどうかと思う」
「というと?」
「アメリカは人類の巨大な実験場だっていったろ。多くの人種が集まっているからこそ、世界中から知恵が集まり、社会制度でも、経済活動でも画期的な発想が生まれ、進化する。しかし、だからこそ、悲劇もおきる。アメリカ社会は常にそうした課題にチャレンジしてゆく宿命にあるわけさ」
「でも、移民社会って今ではアメリカだけじゃないだろう?」
「ヨーロッパだって、アジアでいえばシンガポールのように、多くの人種が集まっている場所は少なくない。これらの地域はアメリカ社会の試行錯誤をも参考にしながら、社会造りに取り組んでいるはずだ」
「例えば?」
「フランスではアフリカ系のフランス人、旧植民地のアルジェリアからの移民と伝統的なフランス人との対立があるし、シンガポールでは伝統的に経済力を持っていた中国系の人々と、マレー系や南インド系の人々との確執など、様々な例がある。でも、こうした課題を乗り越えることが、そのままグローバルなコミュニティでの活力ある国造りへ直結していることを知っておきたいね」
「ということは、今回のミズーリ州での悲劇も、そうした未来の社会造りの教訓になって欲しいというわけだね」
「簡単じゃないけどね。そもそもこうした問題は根深い問題だし。ただ、一つ大きなルールを知っておいてほしい。ここでも黒人系とか白人系という言葉を使っているけど、本来は人種ではなく個人として対応することが、多民族が混在する社会での最も大切なルールだということを」
「というと?」
「つまり、成功するのも、過ちを犯して罰せられるも、全て個人の問題で、黒人だから、あるいは日本人だからといった発想で人をくくって判断することが、最も危険な偏見の原因だという教訓が、移民社会に根づき、法制度の上でちゃんと機能しなければならないということ。ミズーリの事件も、だから白人はとか、やっぱり黒人はという表現に置き換えられることが最も危険なアプローチだ。世界が混沌とし、多民族が融合する中で、人を人種や国籍で捉えてはならないという発想は最も基本的な人権の問題にも直結する大切なテーマだよ」
この重たいテーマを皆さんはどのように感じるでしょう。
日本人も一歩海外にでれば、世界の中の一民族として認識されるのです。また、日本社会も外国人労働者や留学生をいかに受け入れてゆくかという課題に直面しています。ですから、このテーマは決して遠い外国のテーマではないのです。