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ケニアの国連大使の語るウクライナへの想い

Instead, we agreed that we would settle for the borders that we inherited, but we would still pursue continental political, economic and legal integration. Rather than form nations that looked ever backward into history with a dangerous nostalgia, we chose to look forward to a greatness none of our many nations and peoples had ever known.

(その代わり、我々は〔植民地の旧宗主国から引き継いだ〕国境を受け入れました。そして、今もなおアフリカ大陸での政治、経済、そして法的な融和を模索しています。危険なノスタルジアで過去の歴史へと後ろ向きになるのではなく、多くの国と人々が未だ成し得ないでいる、より崇高な課題を見つめ進んでゆくのです)
― 国連常任理事会でのケニア代表のロシア非難演説 より

NYのとあるウクライナ系書店で出会った移民の思い出

 ニューヨークのブルックリン、コニー・アイランドというレトロな遊園地の跡地の近くに、ブライトンビーチという街があります。そこは別名「リトルオデッサ」と言われ、ウクライナやロシアからの移民が多く住む地域なのです。
 ここの住人の多くは、古くは19世紀の列強に分断され帝政ロシアによって抑圧された人々、その後はソ連がスターリンのもとで進めた有無を言わさぬ共産化と民衆の弾圧から逃れてきた人々の子孫です。世代が変わり、街の住人も変わってゆくなか、今でも錆びついた高架鉄道の駅を降りれば、そうした移民の風情が漂ってくるのです。ソ連の一部に組み込まれたウクライナは、スターリンの圧政だけではなく、第二次世界大戦でも独ソ戦によって甚大な被害を出しました。そんな歴史の重圧から逃れ、20世紀の生き証人となった人々の子孫が暮らしているのです。
 
 ところで、ニューヨークの中心地マンハッタンにも、もう一つのウクライナ人コミュニティがあります。イースト・ヴィレッジと呼ばれる地域、特にセカンド・アベニューの7番街との交差点の近くにあるセントジョージ・ウクライナ教会を中心とした一帯が、今では小さくなったものの、ウクライナ系移民が多く居住していた場所でした。
 
 もう30年近く前になります。この教会の近くにあったサーマ・ウクライニアン・ショップというウクライナ系の書店を訪ねたことがありました。当時、その書店の創業者マイロン・サーマック氏は、96歳で健在でした。
 彼は17歳のときに、母親が牛を売って作ってくれた25ドルを持って、ウクライナからアメリカに移住してきました。やっとの思いでニューヨークにたどり着き、移民局の食堂で出された一杯のミルクとアップルパイは、一生忘れられない味だったと語っていました。彼は先にアメリカにやってきた兄を頼ってペンシルバニアの鉱山で働きました。やがて、故国を離れて働く同胞にウクライナの本や新聞を売ることを思いついた彼は、ニューヨークでそれらをトランクに詰めて路上で売ったのです。それがサーマ・ウクライニアン・ショップのおこりでした。一方、彼の兄はその後失業して故国に帰り、第一次世界大戦で戦死してしまったのです。
 サーマック氏はそんな思い出話を聞かせてくれました。それが、私がウクライナを知るきっかけでした。
 

20世紀に起きた無数の悲劇の忘却とノスタルジアへの警鐘

 一杯のミルクとアップルパイの味と同じことを、今ウクライナから逃れてきた難民の多くが体験しているかもしれません。戦争は難民やサーマック氏のような移民を生み出します。そんな昔話が「ものがたり」になろうとしていた今、また同じような悲劇が起こっています。サーマ・ウクライニアン・ショップは孫に引き継がれ、そして2010年7月に閉店しました。そして今、忘れ去られたはずの20世紀の動乱が、悪夢のようにサーマック氏の故郷ウクライナを再び覆っているのです。
 
 ウクライナにロシア軍が侵攻してきたとき、国連ではケニアのマーティン・キマニ大使が心に残る演説をしていました。
 
「我々アフリカは、植民地から独立したとき、列強が意図的に引いた国境をそのまま引き継ぎました。そのことが、様々な部族や民族の対立の原因ともなりました。しかし、我々はその国境を受け入れ、過去の恨みへのノスタルジアと訣別し、アフリカ大陸の宥和のために前に進まなければなりません。国境の設定に不満がないわけではありません。しかし、国連憲章を遵守し、より崇高な目的のためにそれを受け入れなければならないのです」
 
というのが、冒頭にも紹介したキマニ大使のスピーチの要約です。
 
 20世紀に国境や民族の問題で多くの血が流され、民族のプライドや過去への執着によって無数の戦争が起こったことを、多くの人が身をもって体験したはずでした。しかし、確かに時代は変わってしまいました。年とともに戦争体験者や、19世紀から20世紀にかけて、さらには戦後に起きた様々な国際紛争の「かたりべ」も世を去ってしまいました。サーマ・ウクライニアン・ショップの閉店も、そんな忘却を象徴したイベントでした。
 一方、そうした忘却への警鐘を鳴らし、ロシアを非難したケニアの国連大使の演説は、早速CNNなどの海外メディアで称賛をもって取り上げられました。
 

「危険なノスタルジア」を武器にしたプーチンの行く末

 ウクライナとロシアは隣国です。隣国同士であれば、そこにそれぞれの国の人が居住し合うことは充分にあり得ることです。ウクライナのロシア国境地帯にロシア系住民が居住していることは、大陸国家であればどこにでも起こり得ることなのです。さらに言うならば、不幸にして一つの国家の中で民族間の不平等や差別が発生することも、残念ながら歴史が常に教訓として語ってくれています。であればこそ、そうした課題を乗り越えるためにも、他国による軍事力での介入を国連憲章が戒めているわけです。
 ロシアが国連安全保障理事会の常任理事国でありながら、そうした国連憲章の意図を蹂躙したことが、言うまでもなく国際社会での批判につながっているのです。
 
 アメリカはこのサーマック氏の事例のように、世界で動乱が起きるたびに移民を受け入れ、移民国家として成長しました。ですから、国内にはその過去を引きずり、それを政治の場でも主張する人々が多くいます。そして、ロシアのプーチン大統領はそのようにして大きくなったアメリカの影響力を排除し、過去のソ連の栄光を取り戻そうとウクライナに侵攻しました。
 しかし、プーチン氏は権力闘争で葬った人々からの反抗を防ぎ、過去の暗部を糾弾されないためにも、ロシアでのポピュリズムにすがって、権力の座にしがみつく以外に生き残れません。そのためにもウクライナを使って、仇敵アメリカに挑もうと暴挙に出たわけです。「危険なノスタルジア」を武器に使って、国内でのポピュリズムを煽り、生き残りをかけるプーチン大統領の誤算がどのようなつけとなって彼に回ってくるのか。ウクライナ侵攻は彼の破滅への序曲なのかもしれません。
 
 ウクライナが20世紀の亡霊から解放されることを、祈るばかりです。
 

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