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イギリスを震撼させた新生児連続殺人事件

Former nurse will never be released from prison after becoming only third woman alive to be given such sentence in UK.

(元看護師は、現在生存しているたった三人目の女性として、終生刑務所から釈放されることはないだろう)
― ガーディアン より

ある看護師が起こした残虐な事件の裏側とは

 イギリスで過去最悪の新生児連続殺人事件が起き、先週の土曜日に陪審員での評決が下ったことは、僅かですが日本のニュースでも報道されていました。とはいえ、事件の重大性からみると、その内容をしっかりと解説した報道はほとんどありませんでした。そして、今日(月曜日)彼女に対して、死刑制度が廃止されたイギリスにおける史上三人目の女性として、終身刑(保釈条件なし)の判決が言い渡されました。
 
 社会を震撼させたのは、現在33歳になる看護師のLucy Letby(ルーシー・レトビー)が起こした事件です。2015年から16年にかけて、イギリス中部マンチェスター近郊にあるチェスター伯爵夫人病院で、7人の新生児が殺害され、さらに6人に対する殺害未遂があったのです。日本時間の土曜日の夜、イギリスのメディアはこのニュースでほぼ占有されていました。社会に与えた影響の甚大さが見えてきます。さらに被害者がいるのではないかともいわれ、何件もの不審死や乳幼児の容体急変について、解明されていない可能性もあるといわれています。しかも、この事件は、病院側の対応やそこで働く人材の管理をめぐり、単なる連続殺人事件としては片付けられない、複雑な社会背景もあるようです。
 

病院の危機管理体制に投げかけられる鋭い視線

 この病院で、治療が必要な新生児の不審死が発生した時刻に、ルーシー・レトビーが必ず勤務していたことから、医師や関係者が疑念を抱くようになったのは、すでに2015年のことでした。彼女は同じセクションで勤務する既婚男性と不倫関係にあり、その心の葛藤から、自分の行為によって男性、さらには病院関係者の注目を集めたかったのではと犯行動機を取材したメディアは報道しています。
 さらに、彼女の自宅で発見されたノートには、自分は悪魔だと記したメモも見つかり、無抵抗の新生児を自由に殺害できる神のような絶対的な力に酔いしれていたのではという異常性も指摘されました。殺人による被害者の悲しみと、無抵抗の新生児の死との間でのスリルを楽しんでいたという検察官の報告もあります。しかし、動機はいまだにはっきりとは解明されていないのです。
 
 特に2016年以降、彼女は制御不能な状態で、新生児の集中治療室での殺人と殺人未遂を繰り返しました。殺害方法は薬の投与、空気の注射など多様でした。それが犯行を特定させないための手段だったのか、その真意はわかりません。同僚の証言では、彼女をシフトの関係で一般の赤ちゃんの病棟に異動させようとすると、明らかに不機嫌で集中治療室に戻してほしいと請願していたのです。
 
 一方、病院の対応にも注目が集まりました。不審死が続く中、その時間に必ず彼女が勤務していたという不自然さを指摘されながらも、病院のマネジメント側は警察への通報と捜査依頼に踏み切りませんでした。理事会で医師やコンサルタントが何度か懸念を表明しても、ルーシー・レトビーの勤務は続き、彼女に対しては、病院が疑いを向けることで不快感を与えたことへの謝罪まで行いました。
 一部の関係者は外部の第三者にしっかり調査をしてもらうべきだと指摘しましたが、病院側はその必要を認めず、外部へのメール等での連絡も禁止したのです。
 
 このことから、理事会内部での情報共有と、事態の深刻さへの対応の緩さが鋭く指摘されました。ある被害者の親族は組織的な隠蔽ではないかと詰め寄ります。2017年になって、ようやく病院側は地元の警察に捜査を依頼します。しかし、その時点でもルーシー・レトビーは、新生児ケアの任務は解かれていたものの、病院の危機管理センターで勤務を続けていたのです。そこでどのような証拠隠滅がなされたのかはわかりません。
 
 通報を受けた警察は、「ハミングバード作戦」と名前をつけ、特別な捜査部隊による病院の内部調査を実施しました。そして、ついに犠牲者の赤ちゃんの体内から人体では生成できないインスリンが発見され、その糸口からルーシー・レトビーの犯行の証拠を掴んだのです。2018年に彼女は逮捕されます。今回の裁判にあたって、犠牲者の家族は病院に対して国による徹底した調査を求めているのです。
 家族は新生児を病院に預ける以外に選択肢がないだけに、今回の事件は欧米では病院の危機管理の問題として大きく取り上げられました。日本でも過去に施設内での知的障害者への殺人事件など類似した事件が起きているだけに、これは他国の問題として片付けられるケースではないようです。
 

被疑者と被害者の人権、そして知る権利を尊重すること

 イギリスでは被疑者の権利という点において、さまざまな制度が存在しています。有名なのがテレビドラマにもなったAppropriate Adult(アプロプリエート・アダルト=「適切な大人」)という制度です。取り調べ室では被疑者に弁護士の帯同が許されています。加えて、立場の弱い被疑者に対して適切な形で調査や尋問が行われているかを監視し、被疑者を保護する目的から、一般人の同席まで認められています。そうした役割を担うのがAppropriate Adultという人の存在で、以前シリアルキラーの事件で同席した女性の心の葛藤がテレビドラマ化され、大きな反響を呼んだこともありました。
 
 ルーシー・レトビーのケースでも同様の制度が適応されたのかどうかについては、報道はありません。一方で、イギリスでは知る権利を尊重するために、報道についてのモラルは大幅にジャーナリズム側の判断に委ねられていることも事実です。今回も彼女の逮捕の模様や取調室での映像の一部などが公開され、何度もニュース番組でリリースされています。この対応が被疑者の人権の侵害になるかどうかも、社会での議論の対象となっているのです。
 
 イギリスやEU加盟国、さらにはEU域外での北欧諸国などでは、死刑制度は廃止されています。EUに加盟するときにはその廃止が条件ともなっています。実際、EU加盟国ではないものの、2011年にノルウェーで人種差別を理由とする連続テロ事件が起き、多くの人が犠牲となったときの被疑者への量刑は21年で、10年間は保釈なしというものでした。それでもこの量刑は、同国では最も重い刑でした。ノルウェーではこうした受刑者の収容施設内での待遇についても、人権の観点から果たして適切なケアが行われているのか、議論が繰り返されているのです。
 
 ルーシー・レトビーの事件では、犠牲者とその家族の実名は、被害者への配慮から公表されていません。そして彼女へ判決が下された後も、さらに病院や本人への調査は継続する予定です。
 写真で見る限り、彼女はどこにでも勤務していそうな献身的な看護師に見えます。そんな彼女に対して、同僚がどこまでその特定に向けた調査に参加できるかという疑問も残ります。
 
 であれば、警察などへの協力要請の遅延が、被害者を増やし、今回の事件をさらに深刻なものにしたことになります。そして、疑いを受けている被告の権利、病院という組織の中での勤務者の権利など、それらを守りながらどのように犯人であることを実証し、正しい判断のもとで処罰するかという課題を考えることは重要です。単に被害者や事件の残虐性への怒りという感情だけに左右されてもいけないのです。
 
 ルーシー・レトビーのケースは、イギリスだけではなく、人類すべてに課せられた罪と罰に関する厳粛な課題ともいえるのです。
 

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『日英対訳 世界の歴史[増補改訂版]』山久瀬 洋二 (著)、ジェームス・M・バーダマン (訳)日英対訳 世界の歴史[増補改訂版]
山久瀬 洋二 (著)、ジェームス・M・バーダマン (訳)
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