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『自由からの逃走』によって低下する欧米の求心力

If humanity cannot live with the dangers and responsibilities inherent in freedom, it will probably turn to authoritarianism.

(もし人類が自由に内在する危険や、それに対する責任と共存できなければ、それは権威主義へと人々を導きかねない)
― Erich Fromm 著 Escape from Freedom 書評 より

冷戦の終焉から民主主義化した国家が抱える社会の矛盾

 スウェーデンに本社のあるIKEAといえば、プラモデルのように素材を合わせて組み立てられる北欧風家具の開発・販売で、世界に進出している企業として知られています。
 そのIKEAが、以前ハンガリーに進出したときのことでした。
 IKEA本社から送られてきたマネージャーが現地に着任して悩んだのが、現地の社員の行動様式だったと、以前語ってくれたことがあったのです。
 一つひとつのプロジェクトについて、まさに右なら右、左なら左と細かく指示を出さないかぎり、社員が思うように動いてくれず、物事が前に進まなかったのです。それぞれの自主性を重んじながら、結果をもって判断し改善を重ねてゆく欧米型の手法が通用しないのです。社員が常に上からの指示を待ち、判断を求めてくることで、着任したマネージャーは翻弄されてしまったのです。
 
 それには理由がありました。ハンガリーは、長きにわたって共産主義政権のもとにありました。人々は常に政府のスローガンに従って動き、物事を考えるときもそうした縦社会の階段を意識して行動するように教育を受けてきたのです。
 したがって、現地に派遣されたマネージャーの最初の仕事は、こうした異なる意識を持つ人々へIKEAとしての社風を移植しながら、いかに現地の人々と妥協しながら業務を進めてゆくかという環境作りでした。
 
 このケースは、ハンガリーに限ったことではありません。それは戦後の冷戦を経て次第に社会が変化し、数十年という歳月を経て民主主義国家に成長してきた多くの国が抱える、社会内部の矛盾なのです。その矛盾は人々の心の中に潜む、「権威への従順」という外からは見えづらいものだけに、一朝一夕で変化するようなものではなかったのです。
 
 20世紀に世界中の社会心理学者が注目した名著に、エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』がありました。
 彼はその中で、人間は上にある強い権威と自らが見下すことのできる社会層の間に当てはめられたときに、心理的な安心感を覚える傾向があると主張したのです。個人の中に上へのマゾヒズムと下へのサディズムが同居し、そのバランスの中で人々が安心感を抱くという心理学的なメカニズムが存在すると、彼は記したのです。したがって、人々が「自由」という環境の中に放りこまれ、完全な個人として、上や下という考え方を捨てなければならなくなったとき、多くの人は不安になり、自由から逃走しようとする現象が発生するわけです。
 
 この現象によって戦前に生み出されたのが、ドイツでのナチズムだったとエーリヒ・フロムは主張します。ヒトラーやナチスという党の権威、さらには「偉大なるドイツ」という荘厳なテーマを上に仰ぎ、同時に自らをユダヤ人の上に置き、彼らや有色人種を下にみることで、多くの人がドイツという国家の中で、集団として生活することに安心感を抱いたのです。
 これと同様の見えない意識が人類の中にあって、社会が不安定になったときに、あたかも牧童に導かれる羊のように、人々を操る新たな権威を生み出すことになるわけです。この現象は、エーリヒ・フロムが生きた時代を超え、現在の世界を分析するときにも十分に通用するのではと思うのです。
 

民主化した自由主義から権威主義へと逆走するハンガリー

 ソ連が崩壊したあと、1990年代にハンガリーにも民主化の波が押し寄せました。人々は新しい時代の波に押されるように民主主義を取り入れ、自由競争の世界に投げ出されます。共産党という上に見なければならない組織はなくなります。やがて、ハンガリーはEUにも加盟しました。その結果、西側のさまざまな資本が将来性を見越してハンガリーに投資を始めたのです。IKEAもそうした企業の一つだったのです。
 
 ところが、体制は変わったものの、人々の意識の変革は簡単にはいきません。自由や民主主義への憧れが人々を魅了したものの、自由や民主主義の根本を支える、「個人が個々に考え行動する」という意識をすぐに体得することは困難だったのです。見せかけの自由はすぐに崩壊します。「自由からの逃走」が起こるのです。西側の投資で経済がどんどん活性化するようにみえたものの、内部では自らのアイデンティティへの喪失感による不安が人々の間に充満したのです。
 
 そんなハンガリーが大きく揺れたのが、中東での混乱から発生した難民の受け入れをめぐる西側諸国との対立でした。
 もちろん、EUの中核となっているドイツやフランス、さらにはEUを離脱はしたものの西側の主要国との足並みを重んずるイギリスなどの内部にも、移民を受け入れるか否かという議論は沸騰しました。ですが、その議論は個人個人が主張の違いを堂々と表明しディベートする形での、自由に慣れた人々の対立でした。民主主義国家の内部で横揺れや縦揺れが起きることは、こうした国々ではよくあることといえましょう。
 しかし、ハンガリーの場合は少々異なっています。元々あった縦社会への回帰願望が、こうした議論の背景にあったのです。権威主義と呼ばれ、アメリカやEUと本質的に対立する社会への回帰現象が、ハンガリーの中で起きているわけです。
 

「自由」をめぐって激しく揺さぶられ分断される世界

 この人間の心理が起こしている国際社会の変化こそが、今世界を見舞っているアメリカやEUの求心力の低下であり、アメリカやEUの内部にも浸透しているポピュリズムへの傾斜という現象なのでしょう。
 
 この現象が真っ先に発生したのはロシアでした。ソ連が崩壊して自由主義の仲間入りをしそうにみえたロシアが、あっという間にプーチン大統領によって権威主義の砦へと変貌したのです。自由主義に手をつけた瞬間に、その熱い火に指を焼かれたかのように、ロシア社会は彼らの心の拠り所へと回帰しました。
 このロシアの変化に、常に自由社会への傾斜寸前に体制を立て直してきた中国も同調します。この同調が新たな軸を作り、欧米と対立するもう一つの核を生み出したのです。本来「対立する」ことは、人々の心に不安を植えつける行為のように思われます。しかし、対立することで、新たな権威が生まれれば、人々はほっとして対立する相手を自らの下に置きながら、心の安堵を獲得するのです。
 
 今、EU諸国にしろ、アメリカにしろ、20世紀に世界をリードしてきた権威にほころびが生じようとしています。
ウクライナにロシアが侵攻した当初、世界は一つになってウクライナを支援するかと思われました。しかし、残念なことに、その思惑はアメリカと対立する中国やイランなどの国々の反抗によって挫折しつつあります。
 そして、さらに懸念されるのが、EUやアメリカ社会が、社会の分断によって内部から崩壊の危機に晒されている現状なのです。
 スロバキアで今月発生した大統領の暗殺未遂事件なども、人々の心の振り子が「自由からの逃走」をめぐって激しく左右に揺れていることを裏付けます。
 
 日本社会も例外ではありません。「自由」という価値が、人類が本質的に望む価値なのかどうかが、今問い直されているのです。その問いかけは、我々を不安に陥れる極めてリスクの高い疑問であるといえましょう。
 

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