ある日本人が、アメリカ人のビジネスパートナーと打ち合わせたときの会話を再現します。その日本人は、日本のクライアントのために、アメリカ人に現地でのコーディネーションを頼んだのです。しかし、日本のクライアントの要求が過剰だと、アメリカ人のパートナーはメールで文句をいいます。
それに対して日本人は次のように応えます。
「彼らは、我々にとってとても大切なクライアント。だから多少の無理は受け入れて頑張らなければだめなんだ」
すると、アメリカ人は、
「既に僕は充分頑張っているさ。でもこの支払い条件では、これ以上は無理だね」
と応酬します。
「いやね。もしこのプロジェクトがうまくいけば、彼らと信頼関係ができて、さらに大きなプロジェクトの受注につながるわけだから」
と、日本人は説明します。しかし、アメリカ人のパートナーはどうも乗り気ではありません。
「そうかなあ。そもそも彼らは本気で我々と仕事をしたいんだろうか。特に部長のワタナベは我々の提案に懐疑的じゃないか」
このコメントに日本人のほうはムッときます。
そもそも、渡辺氏は彼に仕事を依頼してきた本人です。しかし、彼は英語が苦手で、アメリカ人とうまくコミュニケーションができません。だからこそ、渡辺氏は彼に仕事を依頼してきたのです。
そうした事情をアメリカ人が本当にわかっているのか日本人は疑問を感じます。しかも、一度しか出会ったことがない相手に対して、「懐疑的」などというレッテルを貼ること自体、理不尽だと思いました。
そこで、その日本人は、アメリカ人のパートナーに、
How do you know Watanabe? Please consider my effort how I am working hard to connect with them!
(君はどれだけ渡辺氏のことを知っているというんだい。我々のために仕事をとろうと努力している僕の気持ちも理解してよ!)
と、メールで文句を言いました。
この表現には多少直訳っぽいところもありますが、彼はこれで少しこちらの気持ちをわかってもらえればと期待もしたのです。
このメールへの返信が面白いのです。
I just met him through you. I had never met him until our meeting in Tokyo.
(君を通して紹介されただけさ。東京での打ち合わせ以前に彼と会ったことはないよ)。
この会話、どう思いますか。
日本人は、アメリカ人のパートナーの渡辺氏への思い込みをたしなめようと、多少怒りを込めたメールを送ったのです。しかし、それを受け取ったアメリカ人は、彼とは一度しか会ったことがないと、正に日本人からしてみれば、全くピントのぼけた反応をしてきたのです。
しかし、言葉としての英語を分析してみるならば、二人の会話にはなんら行き違いはありません。問題は、日本人は言外に別の意味を込めて、それを当然アメリカ側は察するだろうという前提で、自らの不満を表明したのです。
それに対して、アメリカ人のパートナーは、日本人の言葉を単語とセンテンスの意味の通りに捉え、それに対して単純に応対してきたのです。
実は、この行き違いこそ、英語でのやりとりで最も頻繁におきる異文化摩擦といえましょう。特に日本人は情で訴え、それを言葉の外に匂わせて相手に伝えようとします。英語を話すときもその対応方法を変えない傾向にあります。
それに対して、英語のネイティブ・スピーカーは、得てして言葉をセンテンス通りに捉えようとします。つまり言外に意味があるとは思わず、思っていることは全て言葉にしてコミュニケーションをするべきだと思っているのです。
このコミュニケーションの方法の違いが故に、言外の意図を相手に伝えられず、誤解や苛立が広がったケースは数知れません。
英会話を学ぶとき、ただ単語力やセンテンスの構成力に頼ってはいけません。自らが言いたいことを、相手のコミュニケーション文化に合わせて伝達するノウハウを覚えることが必要なのです。
この短いやりとりは、そのことを意識しないことからおきる誤解のプロセスを如実に物語っているのです。