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Urban Archeology (都市考古学) が語る江戸と世界

So Yaesu was named after the Dutchman Jan Joosten?—You could have fooled me.

八重洲の語源ヤン・ヨーステンとつゆ知らず
(日本橋カルタより)

【解 説】

西暦1600年3月、大西洋を渡り、南米の最先端、マゼラン海峡を経てさらに太平洋を横断中に嵐に遭遇したリフーデ号というオランダの帆船が、豊後の国、現在の大分県に漂着しました。
オランダの港町ロッテルダムを出帆して2年、乗組員の8割以上は過酷な船旅の途上に命を落としています。

漂着した人々の中に、イギリス人のウイリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンがいました。彼らはその後、徳川家康に仕え、9ヶ月後におきた関ヶ原の戦いでも軍事顧問として家康の勝利に貢献したといわれています。

やがて、家康が江戸に幕府を開くと、両者はそれぞれ江戸城の近くに屋敷を構えます。ヤン・ヨーステンの住んでいた場所は、彼の名前がなまってヤエスとなり、後年「八重洲」と呼ばれるようになりました。東京駅のある場所です。
このカルタは、その蘊蓄を日本語と英語で紹介したもので、東京の日本橋界隈の歴史を掘り起こし、観光資源にしようと、最近作成されたのでした。

Urban archeology (都市考古学) という言葉があります。考古学というと太古の遺物を発掘し検証する学問と思いがちです。しかし、時代時代で間断なく進化する大都会の過去を土の中や資料から掘り起こし、我々に紹介することも考古学の一つの分野で、英語ではそれを urban archeology と呼んでいるのです。

実は、ヤン・ヨーステンの物語は、江戸が、実はニューヨークにも、アムステルダムにも、そしてインドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)にもつながる世界史の meridian 経線に位置づけられていたことを我々に語ってくれます。

ルターが宗教改革を提唱して 80年。17世紀初頭のヨーロッパは、旧教を支持する人々と新教を奉じる人とで血で血を洗う混乱状態に陥っていました。カ各地の領主や王族も、どちらかをサポートし、勢力拡大に努めていました。

オランダは、元々当時の超大国で旧教の守護者でもあったスペインの植民地でした。しかし、オランダには新教徒が多く、スペインに対して独立運動が勃発します。交易を生業していたオランダ人は、独立戦争を遂行するために、海外の富を求め航海に出ます。そして、現在のニューヨーク (当時はニューアムステルダム)、インドネシアのバタビアなどに交易の拠点を設けたのです。

一方、旧教徒側のスペインやポルトガルは、既にインドや東南アジアに拠点を設け、日本とも交易を進めていました。ヤン・ヨーステンは、そんな日本でオランダの利権を獲得し、スペインやポルトガルを駆逐しようと、徳川家康に近づいたのです。

江戸は湾に面した海辺の街。幕府を開いた家康は、江戸湾を埋め立て、運河を造り、市街地の建設を進めます。運河と水利事業では、アムステルダムは先輩でした。ヤン・ヨーステンは、江戸を正にアムステルダムのようにしようと、都市計画に参画したのです。
今、高速道路や主要幹線道路の通っている場所は、昔はそうした運河であったといわれています。しかも、同時期にバタビアやニューヨークで、オランダ人は同じような都市造りを進めていたのです。

オランダ人は日本でとれる銀に注目しました。やがて、彼らはたくみに幕府を操り、旧教徒の影響力を削いでゆきます。それがその後の鎖国につながり、長崎の出島でのオランダとの交易へと続いてゆくことは、歴史の教科書にも語られています。そして、スペインとの戦争を勝ち抜いたオランダは、世界の屈指の海運国として、1648年に正式に独立が承認されたのでした。

以前にも、解説しましたが、世界史も、国際情勢も、常に広い横の繋がりを鳥瞰すると、色々な物語があぶり出しになるものです。
江戸時代のはじまりが、こうした国際情勢の見えない横糸に操られていたことを今考えるのも、なかなか面白いものです。

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