【海外ニュース】
The blind Chinese dissident who escaped to New York after sparking a diplomatic row between Beijing and Washington will give his first extensive talk about his ordeal this week.(New York Post より)
ワシントンと北京の間での外交問題として火花を散らし、ニューヨークに逃れてきた盲目の中国出身者が自らの苦難の道のりを語り始める。
【ニュース解説】
日本でも何度か報道された中国の盲目の活動家陳光誠氏。彼は4月に北京のアメリカ大使館に保護されましたが、その後出国、現在はニューヨークに住み、ニューヨーク大学の客員研究員となっています。彼は、中国で国や地方政府の不正をあばいてきた法律家であり中国医でした。そんな活動が当局にとがめられ、アメリカ大使館に逃げ込んだ彼を巡って中国政府とアメリカ政府とが火花を散らした末に、陳氏の渡米を中国政府が許可したことは、つい最近のことでした。
ニューヨークに滞在した中国の活動家で思い出すのは、その昔日本からアメリカ、そしてイギリスへと亡命し、活動資金を調達していた孫文のこと。中国革命の父と呼ばれる孫文が渡米したのは 1899年のこと。西海岸から各地を回りニューヨークに。孫文が滞在したのはチャイナタウンでした。
ソーホー SOHO の南西、キャナル・ストリート Canal Street を挟んだあたりが、ニューヨークのチャイナタウンの中心です。阿片戦争後の混乱で 1850年代に大量の中国人が国外に流出。彼らの多くは職を求めてアメリカへやってきたました。当時のアメリカは西部開拓のために労働力を必要としていたのです。1869年までに華南 (特に広東や福建) を中心とした一帯から1万人を越す中国人が渡米しました。
映画のシーンなどでも時々見かけますが、彼らが働いたのは大陸横断鉄道の建設現場。その後、鉄道が完成し、職を失った中国人はアメリカ各地へ。ニューヨークにもやってきました。仕事にはなかなかありつけず、長い海外生活からの孤独も手伝ってか、犯罪に走る者、阿片中毒になる者も多かったといいます。ニューヨークの阿片窟の様子は、1920年代の禁酒法時代を描いたロバート・デ・ニーロ主演の映画、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ Once Upon a Time in America などにも描かれています。こうした貧しい中国系移民の急速な増加は、アメリカでの中国人に対する偏見を助長します。中国人とほかの移民たちとの間の職をめぐるいさかいも絶えず、追いつめられた中国人の中には、さらに凶悪な犯罪に走る者もいたようです。移民の流入に対する規制措置の一環として、1882年に中国人移民規制法が議会を通過したのはまさにそうした背景によるものでした。
とはいえ、こうした偏見はますます中国人を団結させ、チャイナタウンは発展します。それは西海岸での日系移民への差別と、ロサンゼルスでの日本人街の発展との関係とも似ていますね。
ニューヨークのチャイナタウンは、1858年から現在もチャイナタウンの中心に位置するモット通り Mott St. に店を出した一人の広東商人の雑貨店が起源です。そこを中国人が訪ね、故国のものを手に入れたり、情報を交換したり、家族からの手紙を受け取ったりしたのです。やがてその雑貨店の周辺に中華料理店をはじめ、中国人の経営する店が集まるようになりました。当時、相当数の中国人が洗濯屋を営んでいたようです。もともと労働者としてやってきた中国系移民のほとんどは男で、19世紀のチャイナタウンで中国人女性を見かけることはあまりありませんでした。そんなチャイナタウンのもう一つの顔が、孫文が滞在したように、中国の社会変革や戦前の抗日運動などの安全な活動の場としての役割だったのです。そこから発せられるメッセージが、世界へ中国の現状や、戦前の日本の中国への侵略行為などを知らしめていったことも事実なのです。
今では、チャイナタウンはニューヨークの中の一つの町。街の周辺に住む中国系移民のためのショッピング街にもなり、チャイナタウンの政治的役割は終わったのかもしれません。
しかし、チャイナタウンの 150年に及ぶ歴史とその役割の延長に、今回の陳氏のアメリカへの亡命。さらに天安門事件の後の多くの活動家の亡命事件があったということを、ここで改めてお話ししておきたかったのです。