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自浄能力を失うな、日本の英語教育

Japan ranks close to the bottom among 29 Asian countries in English-language proficiency. The nation is trailed by only Laos and Tajikistan in TOEFL scores.

(日本はTOEFLのスコアでの英語力調査において、アジアの国々の中で29位となった。ラオスとタジキスタンだけが日本より低いスコアだった)
― Japan times より

国際会議の出席者から見えた英語表現の多様性

 前回に続き、日本の英語教育の課題について、さらに掘り下げてみます。
 先日、ある国際会議にて、留学関係の専門家から、英語が母国語でない国の大学のうち、17,000校もの大学が授業を英語で提供しているという報告がありました。当然、そうした大学では多彩な英語のアクセントや表現が飛び交っているはずです。
 その国際会議に参加した17人のうち、15人は全員カリフォルニア州に居住している人でした。国際会議といっても、同州以外から参加していたのは私とインドの友人の2人のみだったのです。会議のテーマは「未来型の英語教育のあり方」で、当然のことながら、参加者は全員が英語教育に携わっている人たちです。
 
 その会議の参加者を見て、改めて考えさせられたことがありました。
 カリフォルニアから参加した15人のうち、なんと12人は母国語が英語ではない人たちなのです。彼らの英語をよく聞くと、二つの特徴がありました。
 一つは、彼らがアメリカに長く住みながらも、それぞれが独自のアクセントをいまだに維持していること。そしてもう一つは、英語を使ったレトリックが様々で、イギリスやアメリカ流のロジックビルディングの方式から、ときには逸脱していたことです。
 しかも、英語が母国語であった人のうちの一人は、長い間イタリアに在住しており、発音の最後に母音の音声が混ざっていました。明らかにイタリア語の影響を受けてしまった発話に終始していたのです。もちろん、インド人は相変わらず強いインド系のアクセントを保持しながら、堂々と自論を展開していました。
 
 アメリカは移民の国とはいえ、カリフォルニア州というアメリカを代表する州の中で、英語教育に携わる人の多くが、これだけ多様な英語表現を駆使しながら、会議でこれからの英語のあり方について、臆することなく意見交換をしていたことは印象的です。
 実際、言語は生き物で常に変化します。我々が江戸時代の日本語を聞いても誤解したり聞き取れなかったりするところがいくつもあるように、移民社会でもまれるアメリカではさらに英語が激しく変化します。
 ということは、スタンダードな英語とは一体何なのでしょうか。また、世界中の国民が使用する多様で多彩な英語教育の本来の目的とは、一体何なのでしょうか。
 

言語における「スタンダード」とは一体何なのか

 一方で、英語というとアメリカ英語とイギリス英語(ブリティッシュ・イングリッシュ)が二大主流である、という常識を我々は持っています。英語の成り立ちを考えれば、それはさも当然のことです。とはいえ、アメリカ英語はそもそもイギリス英語が変化した方言の一つではなかったのかという疑問も残ります。
 
 会議の中では、アメリカ英語のスタンダードの教育に固執する教授もいました。彼女は、例えばフィリピン人などによるオンライン教育には懐疑的でした。フィリピンでは子どもの頃から英語教育を受けていて、優秀な生徒はネイティブのように話すことができますが、音声だけを聞くと、確かに彼らに共通した特徴が見受けられます。しかし、そんな個々の特徴は、アメリカの黒人系の人々がカジュアルに交わす会話の中にも見られると、多くの人が反論しました。
 確かに、フィリピン系の人々が話す英語での語彙の使われ方は、現在アメリカで話されている英語よりは保守的です。しかし、だからといって変だとか通じないということはまったくありません。
 
 以前、アメリカ人に「イギリス人の英語はどのように聞こえるのか」と尋ねたところ、「彼らは、我々は絶対使わないような言葉遣いをするんだよ。ときには滑稽にすら思えるね」と、笑って語ってくれたことがありました。それほどまでに、英語を母国語とする人同士でも、話し方に違いがあるのです。
 また、シリコンバレーでスターバックスに行ったとき、カウンターで対応してくれた若者の単純な英語がわからなくて困った経験がありました。ショックを受けた私が、隣にいた年配のアメリカ人の友人に聞いたところ、「心配するな。俺だってわからなかったよ」と、笑いながら話してくれました。シリコンバレーの若者同士でも新しい英語表現が生まれているのです。
 
 もちろん、こうしたことは英語だけに限った話ではありません。
 例えば、今北朝鮮と韓国との間で、すでに韓国語(朝鮮語)の表現や語彙がかなり異なってきていることが、ソウルではよく話題になっています。言語は10年ごとに更新しないかぎり、常に進化し、変化するのです。
 日本語の事例を挙げると、「やばい」という言葉は、20年以上前は「まずいことをした」ときに使う表現でした。しかし今では、「心が動かされ感動した」ときに使用されることが多い、ということはよく知られています。日本語が得意な海外の人が今この言葉を聞けば、誤解してしまうかもしれないのです。
 

変化する英語への対応力と会話の輪に入る柔軟性と

 これらの事実を加味しながら、グローバルな時代に我々に求められている語学教育とは一体何なのか、考えてみます。
 ここに記した事実と現実とを無視し、無理やりアカデミズムの綱で縛りつけて、文法や発音の成否だけを強調する現在の英語教育を、もっと柔軟にしていく必要はないのでしょうか。特に英語の場合は、それがグローバルな言語で、世界中の人々がそれぞれのニーズで使用しているのだということを、しっかりと教育していく必要があるはずです。
 
 それはスポーツ教育と似ています。
 卓球を例にとれば、基本動作や試合に臨める基礎体力を身につけるトレーニングは欠かせないでしょう。しかし、同時に相手からの思わぬボールを受けたとき、それに対応するための俊敏性や瞬間的な判断力、対応力を養う訓練も欠かせないはずです。さらに、人によって異なる攻め方や守り方への対策についても、早く相手の個性に慣れて、それに打ち勝つための柔軟性を育成する教育も必要なはずです。
 
 現在の英語教育で最も欠けているのは、これらのことで、それは基礎トレーニングと同じ比重、あるいはそれ以上に大切なのです。
 そして、意外なことかもしれませんが、日本人の話すアクセントや英語表現をインド人のように堂々と拡張し、世界の自動翻訳やAIでの発音のデータベースにも積極的にインプットしていくような、ダイナミックな対応も必要なのです。臆することなく、自分の英語にプライドを持って、堂々と世界語である英語の輪に入る姿勢を学ぶべきです。
 
 ロンドンでは、イギリス人よりも他国からの移民の数の方が多くなっています。ですから、イギリス英語もどんどん変化しています。当然、シリコンバレーではその傾向がさらに顕著です。同様の傾向は、世界の主要な産業拠点すべてで言えることです。
 変化を嫌うアカデミズムと受験教育のための英語がゆえに、海外との交流にコンプレックスを持つ日本人が、まず取り組むべきことは、人と話せる話題を持ち、相手の懐に飛び込んで会話の輪に入る柔軟性を磨くことに他なりません。
 既得権益を享受する塾教育や、視野の狭い高校の中だけで呼吸する教師に頼る英語教育を打破するには、どうすればよいのでしょう。海外と少しでも本気で対応したことのある人なら、ため息や怒りと共に、現状打破へのチャレンジ精神を失わないようにしてもらいたいのです。
 

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『言い返さない日本人[新装版]海外との究極のコミュニケーション術』山久瀬 洋二 (著)言い返さない日本人[新装版]海外との究極のコミュニケーション術』山久瀬 洋二 (著)
その態度が誤解を招く!異文化の壁を乗り越え、ビジネスを成功させるコミュニケーション術を伝授!
欧米をはじめ、日本・中国・インドなどの、大手グローバル企業100 社以上のコンサルタントの経験を持つ筆者が、約4500名の外国人と日本人への取材で分かった、“グローバルな現場で頻繁に起こるビジネス摩擦“”の事例を挙げ、それぞれ の本音から解決策を導き出します!外国人とのコミュニケーションで、単なる言葉のギャップでは片付けられない誤解や摩擦、そして行き違いに悩むビジネスパーソンに向けた「英語で理解し合う」ための究極の指南書です!

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