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フランスのアバヤ規制で問われる「ディベートの文化」

France’s highest court on Thursday upheld the government’s ban on students in public schools from wearing the abaya, a long, robe-like garment often worn by Muslim women.

(フランスの最高裁判所は、イスラム教徒の女性が着用する長いローブのような衣服アバヤの着用を、公立学校の生徒に禁止する政府の決定を支持した)
― CNN より

衣服の着用にまつわる「政教分離 vs 信教の自由」

 フランスのガブリエル・アタル国民教育相が、最高裁判所の承認もあり、公立の教育機関や政府関連の施設でイスラム教徒がアバヤを着用することを禁止すると発表し、論議を呼びました。国民教育相は、基本的に宗教色のある衣類を着用することは、教育現場での無用な差別や偏見、対立を助長するとのことで、この措置は特にイスラム教そのものをターゲットとしたものではないとコメントしています。アバヤはブルカなどのように厳格に体を覆うものではなく、髪と全身を同じ衣類で整えるもので、イスラム教の女性はそれにファッション性も加味して使用しているのが一般的です。
 
 ただ、こうした動きの向こうに、それであればアクセサリーとして十字架をデザインしたネックレスやペンダントを使用することはどうなのか、といった議論も出てきます。実際、フランスでは学生や生徒の人権を守る観点から、カトリックなどの宗教色を如実に表現した衣服を学校などで着用することについても厳しい規制をかけ、教育の場で教師が宗教的な視点に基づいた発言をすることも禁止してきた経緯があります。
 
 とはいえ、こうした規制は、そもそも衣服と民族衣装との区別をどう考えるのかという疑問にもつながります。
 アフリカ系の移民が多いフランスでは、アフリカの民族衣装を着用した人も多くいます。もとはと言えば、そうした民族衣装のデザインの細部には、それぞれの地域の伝統のみならず宗教的な影響がないとは言い切れません。さらに、多様性を容認することで、人々の宥和を促そうという民主主義社会の考え方に、今回の規制が合致しているのかも疑問です。
 確かに、女性が顔や体を覆うという考え方には、イスラム法による宗教的な戒律が背景にあり、アバヤはそうしたイスラム教の考えを雄弁に語っているという特殊性は認められるでしょう。しかし、それをどの程度まで容認できるかという観点に立ったとき、例えば喫煙規制のように、他者に不快感や健康被害を与えるかどうかという判断基準を除けば、果たして衣服にまで制限を適応することが妥当かどうかは、民主主義国家においては大きな課題といえましょう。
 
 以前、海外から日本を訪れた人が刺青をしていたことで、公衆浴場での入浴を断られたケースが問題になりました。刺青は日本では反社会勢力の象徴のように扱われたことから、日本社会ではそれを規制することで暴力団を社会から締め出す対策として奨励されました。
 しかし、海外では刺青は自己表現のためのアートワークであり、時には宗教上の意味合いも込めたものであるケースも多々あります。日本が海外からの観光を奨励し、海外からの訪問客へ開かれた社会を目指す中で、日本の国内事情だけを海外の人にも適応することが果たして妥当なのかどうかも検討が必要です。つまり、フランスでの今回の規制は他国の問題ではなく、我々日本社会のあり方を考える上でも大切なテーマなのです。
 
 以前、大分県の日出町(ひじまち)でイスラム教徒が求める土葬の墓地を誘致するかどうかで町が二分されていることを報道したことがありました。この時、日本に来る人は日本の常識や慣習に従うべきだと主張する人も多くいたことは記憶に新しく、この問題の根の深さを実感させられました。
 

民主主義社会の本質である欧米の「ディベートの文化」とは

 ただ、ここで一つ考えてみたいことがあります。それは、こうした課題に対して以前は柔軟であった欧米社会でも、最近では今回のフランスのような対応や意識が目立ってきていることです。
 
 もともと欧米には「ディベートの文化」がありました。ディベートとは、一つのテーマをめぐって意見の異なる人が議論をすることを意味しています。今でも欧米の教育現場の多くでは、健全なディベートが行われるように、生徒個々人の考えとは関係なく、課題となるテーマについてクラスを賛成組と反対組の二つに分けて議論することが授業の中に組み込まれています。
 この経験で、違う意見に遭遇したときに、異なる意見を持つ相手とどう対応するかというノウハウを磨くことが可能になるのと同時に、異なる意見を持つ者への理解を深めることもできるわけです。
 
 大切なことは、ディベートはキャッチボールであるべきだということです。つまり、議論は意見の交換であって、相手の心を傷つけたり感情的なものであったりしてはならないのです。意見はあくまで知識と知恵に基づいた議論によって交換し、ロジックをもって闘われるもので、例えば「バカじゃないの」などといった感情的で相手の人格を傷つける表現は強く戒められるのです。
 
 この「ディベートの文化」こそが、欧米の民主主義社会での議論の原点となり、議会などでの意見の応酬の場でも、仮にそれがいかに厳しく対立したものであっても守られなければならない議論のルールがあるのです。
 ある意味でアジアに欧米流の民主主義が導入されたとき、形式上の議会制度などは輸入されたものの、こうした本質的なルールや意識が輸入されなかったことが、課題として残されているようです。日本人は今でも個人の心と意見とを切り離し、論理的にキャッチボールしつつ議論を深めてゆくという考え方がビジネスや政治の現場でも難しく、はっきりと反対されるとあたかも相手を傷つけるのではないかというような意識があり、上司などの前で自分の考えを明快に語ることがタブーとなっているケースも見受けられます。
 

いま一度冷静な議論と多様性を認め合う努力が必要

 この視点で見たときに、民主主義の本家本元ともいえるフランスにおけるイスラム教の伝統への一方的な規制には、少なからぬ危機感を抱いてしまいます。本当にロジックに基づいた議論によって、アバヤの規制がなされ、それは他の宗教へも同様に適応されているのかも気になれば、そもそも信教や表現の自由が公の場所で保障されなくても構わないのかという論点も浮かび上がります。多様性を容認するためには、異なる衣装や習慣をどのように受け入れ理解し合うかという努力も同様に必要だからです。
 
 今、欧米でも社会の根幹となっている「ディベートの文化」の維持が困難になっているとしたら、その先には過去に人類が経験した全体主義への脅威があるのでは、と気にする人も多いはずです。フランスにしても、何度か指摘した社会の分断が進むアメリカにしても、議論の後に握手をするという冷静な意見の交換がしづらくなっているのではないかと懸念されます。
 今回のアバヤの着用規制についても、あらためて「ディベートの文化」を冷静に踏襲しなおした議論が必要なのではないでしょうか。
 

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山久瀬 洋二 (著)、ジェームス・M・バーダマン (訳)
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