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中根中とパール判事が語る歴史の皮肉

C is dull bronze in color-while J is lighter-more on the lemon-yellow side. C’s eyes are set like any European’s or American’s -But have a marked squint…J has eyes slanted toward his nose.

(C〔Chinese 中国人〕はくすんだブロンズ色の肌をしているが、J〔Japanese 日本人〕は肌の色は薄く、レモン色というよりは黄色っぽい。Cの目はヨーロッパやアメリカ人と同じ位置にあるが、切れ長である。Jの目は鼻に向けて傾斜している)
― 日本人をいかに見分けるか(第二次世界大戦中にアメリカで発行されたパンフレット)より

人種差別が根深いアメリカでうねりを起こした中根中

 1943年6月20日。それは第二次世界大戦の最中のことでした。
 この日、アメリカのデトロイトで大規模な黒人暴動が起こりました。当時、デトロイトは戦争を遂行するための軍需産業の中心地となり、そこにあった自動車産業の多くが生産拠点としていました。
 当然、仕事を求めて全米から人が集まり、工場労働者となったのです。そして、仕事を求める白人と黒人との間の緊張も高まりました。当時の大統領フランクリン・ルーズベルトは、工場での人種差別を撤廃する大統領令を出してはいましたが、実態はというと、賃金や待遇、さらには雇用においても白人が優先され、増加する人口の中で住宅も不足していたため、黒人の生活苦は深刻でした。そうした憤りが爆発したのが、デトロイトの暴動だったのです。
 
 その暴動のニュースを、一人の日本人が獄中で知ることになります。
 2018年5月24日、ほぼ2年前のブログ中根中(なかね なか)という人物を紹介したことがありました。彼は当時FBI(連邦捜査局)にスパイ容疑で拘束され、収監されていたのです。
 中根は、1870年大分県の杵築(きつき)市生まれ。その後渡米し、日系人をはじめとしたアジア系の人々への差別、さらに黒人への差別に対して立ち上がり、黒人の活動家にも大きな影響を与えたのです。
 
 アメリカ政府は彼を危険視し国外退去を命じますが、カナダからタカハシという名前で密入国しようとして逮捕されます。実際、彼の影響を受けた黒人活動家は相当な数に及んだと推測されています。そして、逮捕後ではあるものの、デトロイトの暴動にも極秘に関与していたのではとも言われています。
 なんと彼は、10万人規模の非白人系の人々を動員する力とネットワークがあり、第二次世界大戦が始まると、FBIは彼が日本の諜報機関に属してアメリカ国内で社会不安を助長しようとしていたのではないかと疑ったのです。その真偽はわかりません。しかし、それほどまでに中根中のネットワークは巨大でした。
 彼は、その後釈放されデトロイトで没していますが、それはちょうど第二次世界大戦が終わった1945年のことでした。
 
 昨年、トランプ政権末期にミネソタ州ジョージ・フロイド氏が白人警官の暴行で死亡したことから、”Black Lives Matter” というスローガンで人種差別撤廃運動が全米に拡大しました。そして今年になって、新型コロナウイルスが中国から拡散したとされることに起因したアジア系の人々への暴行事件が多発し、社会問題になりました。
 アメリカは移民社会だけに、常に人種同士の軋轢による事件が起こり、その度に人々はその軋轢を乗り越えようと声を上げます。中根中は、そんな人種差別撤廃のうねりを最初に起こした重要な人物だったのです。
 

「大東亜共栄圏」を掲げた日本のアジア侵略と歴史の皮肉

 一方、当時の日本は、第二次世界大戦での自国の行為を正当化するために、「大東亜共栄圏」というスローガンを掲げ、アジア民族がアメリカやイギリスの植民地主義から立ち上がるべきだと主張しました。それに応じた革命家の一人が、アウンサン・スーチーの父親であったアウンサン将軍だったことはよく知られています。
 しかし、実際には日本がアジアを侵略し、それを正当化するためのスローガンだったのです。アウンサン将軍も結局日本に失望し、反日運動へと翻っていきました。
 
 中根中は、そんな日本をどのように見ていたのでしょうか。
 大東亜共栄圏を鵜呑みにして、黒人運動を煽ったのではという疑念がないわけではありません。しかし、アメリカの黒人活動家が彼のことを信頼し、様々な活動の影に常に彼の存在があったほどに、FBIも恐れマークを続けていたのは事実です。
 こうした事実の中に、我々は時折やり場のない歴史の皮肉を感じてしまいます。
 スローガンとしての大東亜共栄圏が、もし政治的なものではなく、心からアジアの独立と人種の平等を謳っていたのであれば、それは確かに一理あるテーゼであったはずです。アメリカでは戦前から日系人や中国系移民への根深い差別がありました。そして、戦争が始まると日系人が強制的に収容所に入れられたことも、史実として知られています。
 
 当時、第二次世界大戦で同盟国になった中国を意識して、アメリカで中国人が日本人と間違えられないように、How to spot a Jap(いかに日本人であることを暴くか)というパンフレットが配られることもあったのです。それが、今回のヘッドラインの文章です。言うまでもなく、Jap とは日本人を蔑んで表現した言葉で、今ではこの言葉を使用すること自体が公民権法に抵触するはずです。
 中根中が生きていたのは、そうした時代のアメリカでした。そして、戦争によってたまたま日系人がアメリカ社会で厳しい差別にあったものの、その根幹にある課題は、アジア系やアフリカ系といったあらゆる有色人種への偏見にあったことは、否めない事実です。
 

77年前の今日に思いを巡らせ、今の社会を考えること

 今回の記事が掲載される6月15日。77年前のちょうどこの日は、アメリカ軍が日本を防衛するために必須とされた、サイパン島への上陸作戦を始めた日にあたります。
 その9日前には、いわゆる “D-Day” として語り継がれているノルマンディー上陸作戦が決行されています。つまり、1944年6月は連合国軍側が日本やドイツに対して、本格的な攻勢を開始した月だったのです。
 サイパンの戦いは24日間に及びますが、そこで日本軍は全滅し、自決者や一般の市民も含めると3万人から4万人近くの犠牲者を出してしまいました。
 
 ノルマンディー上陸作戦の場合、ヨーロッパ大陸への上陸作戦のため、ドイツ軍には退路がありました。それに対して、サイパン戦は島での戦いでもあり、迫る米軍に日本軍は最終的に玉砕してしまいます。そして、玉砕は敵に降伏しないという美談として宣伝されました。
 この延長に、一年後の沖縄戦で、8万人の軍人と12万人にものぼる民間人の犠牲者を出してしまう悲劇が起こるのです。さらに、こうした激しい抵抗に直面したアメリカ側は、日本本土への上陸による戦争の泥沼化を恐れ、広島と長崎に原爆を投下することになってしまいます。
 
 戦後、第二次世界大戦での暴挙を裁く、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれたとき、日本の指導者を裁く法廷で、この歴史の皮肉を訴え続けた判事がいました。
 インドのラダ・ビノード・パール判事です。彼は他の判事が日本の戦犯を一方的に裁くことに終始懐疑的で、裁判の後にその気持ちを「パール・ノート」と呼ばれる独自の判決文に記し、暗にアジア系の人々への偏見に対する憤りを表明しています。
 
 私は、日本の戦争責任を否定することには反対です。そして、当時の日本が行ったことを正当化することはできないと思っています。とはいえ、中根中やパール判事などの意思と大東亜共栄圏のスローガンとの皮肉な矛盾を意識しながら、今その延長にある現代社会を考えていくことは一理あるのではないかと思うのです。
 

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『I Have a Dream!』マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (著)、山久瀬洋二 (翻訳・解説)I Have a Dream!
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (著)、山久瀬洋二 (翻訳・解説)
生声で聴け!世界を変えたキング牧師のスピーチ(日英対訳)
1955年、バスの白人優先席を譲らなかったという理由で逮捕された男性がいた。この人種差別への抗議運動として知られるモンゴメリー・バス・ボイコット事件を契機に、自由平等を求める公民権運動がにわかに盛り上がりを見せた。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはこの運動を舵取りし、そのカリスマ的指導力で、アメリカ合衆国における人種的偏見をなくすための運動を導いた人物である。「I have a dream.」のフレーズで有名な彼の演説は、20世紀最高のものであるとの呼び声高い。この演説を彼の肉声で聞き、公民権運動のみならず、現在のアメリカに脈々と受け継がれている彼のスピリット、そして現在のアメリカのビジネスマネジメントの原点を学ぼう。山久瀬洋二による詳細な解説つきで、当時の時代背景、そして現代への歴史の流れ、アメリカ人の歴史観や考え方がよく分かる1冊。

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