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税金の向こうにある権利を忘れた日本人

In this world, nothing is certain except death and taxes.

(この世に死と税金以外にはっきりとしたものはない)

「市民」と「社会人」の違いがもたらす日本人の納税への感覚

 表題の言葉は、納税が人の避けられない義務であるということを意味する英語の格言です。
 この言葉の重みは、納税することが大切なことであるということだけを意味しません。そうではなく、我々は納税の義務を負う市民であるという意味に捉えなければならないのです。
 もっと言えば、市民である以上、納税は避けられないが、そうであればその税金がどのように使われているのか、しっかりと見極めるのも我々の権利であるということが、この言葉の背景にはあります。それが欧米流民主主義の根本理念なのです。
 
 最近の記事で、私の近親者が白血病と闘っている模様を特集しました。記事では、医療崩壊の現実による病院の人員不足から、彼は症状が多少の回復傾向にあったときに短期退院を余儀なくされ、その結果感染症に苦しんでいた模様を解説しました。その後、彼はそのことが原因で他界しました。
 その背景には税金の使い道による偏りから、病院でのサービスや医療関係者への合理化が進み、元々手厚く医療を施さなければならないところにもそれが行き渡らない現実があることを思い知らされました。税金がどのように使われているかということをひしひしと実感させられた瞬間でした。
 
 日本人は納税者になったとき、市民になったとは意識しません。
 成人式では「社会人になっておめでとう」と言います。市民と社会人。この二つの考え方の違いを、ここでもう一度考えてみたいのです。
 
 「市民」とは、主権者として持つ我々の権利をしっかりと意識し、社会活動に参加する人々のことを指しています。古くはイギリスの清教徒革命アメリカの独立革命に始まり、最近ではアメリカでの公民権運動や昨年の白人警官によるジョージ・フロイド氏殺害事件への抗議など、ヨーロッパやアメリカで為政者の抑圧や不当行為に対する革命や社会運動を通して培われた概念です。
 「社会人」はそうした概念から見れば、極めて曖昧で日本らしいものといえましょう。社会の一員として良識ある行動をとることがその意味するところであって、そこからは政治や我々の社会への鋭い監視や権利意識を見ることはできません。むしろ我々は和を保ち、お互いに扶助しあう社会という「日本人のグループの一員」である意識の方が強いように思われます。
 もっと言うならば、日本では納税の義務は強調されても、納税者の権利の方があまり重視されていないのです。それが市民と社会人との大きな違いであると言えましょう。
 

東京五輪に見る「市民意識の欠如」と「良識重視」の課題

 この考え方に基づいて、東京オリンピックについて分析します。
 オリンピックの開催を支持する人はよく「選手がこんなに頑張っているのに、最善の競技を目指してきた人たちの夢を奪うなんてかわいそう」と言います。
 しかし、「こんなに頑張って自分の目的の達成を目指す人」は選手だけではないはずです。レストランを経営する人、夢を持って新しいビジネスに挑戦する人。これら全ての人たちが同じように頑張って将来にチャレンジしてきたのです。この全てを犠牲にさせているのが、現在のパンデミックです。
 
 そして、アスリートは沈黙しています。
 日本ではアスリートの政治的な発言はタブーであるかのように、ほとんどのアスリートがオリンピックについて自らの意見を表明しません。これが市民意識の欠如であり、社会人であるグループ意識の良識に重きを置く日本社会の課題なのです。
 インドでの新しい変異株の脅威を知りながら、オリンピックを開催し、そこに医療関係者まで大幅に投入することに、なぜ?どうして?という声を当事者であるアスリートや大会関係者が発することができない状況は、和を乱す者を社会から駆逐させようとする見えない圧力のようにも思えます。「沈黙は美」という因習が残っているのです。
 
 欧米ではアスリートはどんどん自らの意見を表明します。芸能人も同様です。人生に成功した企業家などはなおさらです。
 過去には黒人差別への意思表示として、オリンピックで黒い手袋をつけて表彰台で抗議した選手もいれば、最近でもコロナに起因したアジア系の人々への差別に声を上げた選手も多くいます。日本人ではありながら、海外経験をしっかりと経験しているテニスの大坂なおみ選手などは良い事例です。
 
 ケンブリッジ辞典で citizen を示す「市民」という言葉は、そこに居住する人々で権利を持つ人という解説がされています。そして、この言葉からさらに踏み込んだ citizenship(市民権)という言葉では、そこに住む人の義務と権利とを併記しています。日本の辞書も「市民」という意味にはそのことが含まれますが、「社会人」を国語辞典で引けば、権利の部分はあまり表明していないことが特徴的です。そもそも日本人は、市民という言葉をこうしたコンテキストで使用しません。
 
 こうした市民意識の欠如は、そのまま海外との交渉の姿勢にも現れます。
 政府の利益ではなく有権者の利益ということを念頭に、国際交渉では厳しいやり取りが行われるのです。オリンピックは中止して、何年か先に改めて枠を獲得するというような、したたかな交渉すらできないのでしょうか。市民を犠牲にして五月雨式に行う緊急事態宣言などでの財政的な損失は、オリンピック中止による損失をすでに上回っているはずです。政府は市民である国民へのそうした情報公開を積極的に行い、アスリートもしっかりと声を上げて議論すべきです。
 

いつの時代も外圧がなければ決裁できない日本の政治

 最後に、日本はいつでも土壇場まで決裁をしません。外圧がないと最終決定はできないと、海外のメディアですら批判しています。市民の声を無言の圧力で抑えてきた日本では、政府の官僚が誤った判断を行なっても、ぎりぎりまでその方針を改めません。
 
 過去の歴史で象徴的な事例が、第二次世界大戦での降伏です。ポツダム宣言が出されても、国家の中枢だけでその内容を議論し、結局黙殺し、広島と長崎への原爆投下とソ連の参戦という決定的な状況になって初めてその宣言を受諾し、それまでに無数の罪のない人々の命が奪われたことを忘れてはなりません。オリンピック開催の有無についてのプロセスも、時代は異なってもそこに類似したものを感じてしまいます。
 
 市民と社会人。この概念の違いからくる国のあり方を、もっと我々は考えてゆくべきなのではないでしょうか。
 

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バハマ諸島の文部科学省で活躍する女性官僚にインタビューを行いました。
タックスヘイブンや地球温暖化問題など、彼女だからこそ語れる内容が盛りだくさんな動画です。ぜひご覧ください。
https://youtu.be/CmhIday5YrI
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『日英対訳 世界の歴史
A History of the World: From the Ancient Past to the Present』山久瀬 洋二 (著)、ジェームス・M・バーダマン (訳)日英対訳 世界の歴史
A History of the World: From the Ancient Past to the Present

山久瀬 洋二 (著)  ジェームス・M・バーダマン (翻訳)
受験のためではない、現在を生きる私たちが読むべき人類の物語
これまでの人類の歴史は、そこに起きる様々な事象がお互いに影響し合いながら、現代に至っています。そのことを深く認識できるように、本書は、先史から現代までの時代・地域を横断しながら、歴史の出来事を立体的に捉えることが出来るように工夫されています。 世界が混迷する今こそ、しっかり理解しておきたい人類の歴史を、日英対訳の大ボリュームで綴ります。

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