
“Filipino is also designated, along with English, as an official language of Philippine. It is the standard resister of the Tagalog language. Tagalog is among the 185 languages of the Philippines identified in the Ethnologue.”
(フィリピン語はタガログ語を標準化した英語と並ぶフィリピンの公用語。とはいえ、タガログ語はエスノローグ(世界の言語についての出版物)によって認識されている、フィリピンで喋られる185の言語の中の一つの言語なのだ。)
(ウィキペディアより)
マニラから、北に車で6時間、リンガエン(Lingayen)という町にきています。これですでに3回目の出張となります。
マニラから北に延びる高速道路を2時間半、そこから右手にゆるやかな山並みを見ながらのどかな田園と村や町を抜けて西へと車を走らせます。
最初のとき、平日の朝出発したために、マニラ市内の渋滞にはまり、7時間以上かけて現地にはいりました。
それに懲りて、今回は日曜日の早朝にマニラを出発。途中までは実にスムーズでした。しかし、高速道路を降りて、一般道を走行すると、まず葬式の車の列、次に道路工事の渋滞、さらに教会などの様々なセレモニーの車の列にぶつかり、何度ものろのろ運転を強いられます。
地方都市は日曜日の方が渋滞が激しいというのもの皮肉なものです。
リンガエンは、パンガシナン(Pangasinan)州の州都です。そこはリンガエン湾に面して長い浜辺が延びる風光明媚な地方都市。魚の養殖のみならず、木製の家具の産地としても知られています。第二次世界大戦では、日本軍とアメリカ軍とが激しく交戦した場所としても知られています。
ここでの仕事は、質がよく、真面目に働いてくれるスカイプ英会話の先生を発掘することです。
今、日本では英会話の先生が求められています。児童英語や中高校生向けの会話指導、さらには英文添削ができる人材が不足しているのです。
フィリピンはもともとアメリカの植民地であったこともあり、多くの人が英語をしゃべります。
そもそもフィリピンを構成する8,000もの島々は、それぞれに独自の文化があり、場所によって言語が異なります。英語がフィリピン全土で共通に話される言葉であるといえば、多少誇張になりますが、それもまた現実です。
元来、フィリピンの共通語は、マニラ周辺で話されるタガログ語でした。実際、タガログ語は、フィリピン人に共有される言語として改良もされ、今ではフィリピン語という名称が与えられました。
しかし、フィリピンにはタガログ語とは文法も表現も異なる様々な言語が共存しています。そんなフィリピン人にとって一応第二言語とはいえ、英語は全国レベルで公の場所で通じる言語に他なりません。
ただ、フィリピン人の英語がいわゆる英語を第一言語として使用する国と同じく質の高いものかというと疑問が残ります。最近セブ島などで日本とスカイプで結ぶ英会話講座を多くみかけますが、確かに日本人のスピーキング力をつけるためには彼らは最適な人材でしょう。児童英語の場合は特にそうで、フィリピンの人々の明るい気質は、児童に楽しみながら英語を学ばせるには最適です。
しかし、多くのフィリピンの講師が発話と同じレベルで読み書きが堪能かといえば、それは事実ではないのです。
そこで、英語の4技能全てに対応出来る優秀な人材を発掘するために、はるばるリンガエンまで出張するのです。
それには理由があります。フィリピンもマニラやセブといった都市部はアジアの他の地域と同様で、より高い賃金を求め、人が頻繁に転職します。人材マーケットの競争がだんだん激しくなってきているのです。
しかし、パンガシナン州のような遠隔地になれば事情は異なります。
しかも、ここで暮らす人々は、家族を支えるために勤勉に働きます。英語のレベルも人によってはかなり高く、今一緒に活動している人たちは、アメリカ人の英語講師と比較してもひけをとらない総合的な英語力をもっているのです。

リンガエンで働くある英語の講師の家を訪ねました。
彼の住む村は市内から車で30分ほど。そこには水道もなく、人々は井戸水で生活しています。川に面した村の主要な産業は農業と川での漁業。人々は椰子の葉を編んだ屋根の家で生活しています。
村には小学校しかないために、優秀な生徒はリンガエンで中等、高等教育を受けるのです。そして英語の先生になって公立高校で教鞭をとることが、彼らにとっては最高のステータスシンボルというわけです。
フィリピンは3月を過ぎると熱くなり、4月から5月にかけて熱暑に見舞われます。そんな南国の強い陽射が傾く頃、リンガエンでの仕事のあと、隣町のダグパン(Dagupan)の宿に泊まります。

翌朝、仕事の前にそこの魚市場を訪ねました。朝水揚げされた見事な魚があちこちで威勢よく売られていました。
リンガエンまでのタクシーの運転手にその話をすると、彼も副業で魚の養殖をしているとのこと。
複数の仕事を持って生計をたてるのは、フィリピンではごく当たり前のことなのです。英語教師の多くも例外ではありません。
物価はだんだんと上がるものの、賃金が追いつかない。それはマニラなどの都会に限らず、こののどかな地方都市でも同様なのです。
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アジアの人々と働くこと
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“A Philippine President had an approval rate of just 48% — the first time his popularity has dipped below 50% during his 16-month presidency.”
(フィリピンの大統領の支持率は48パーセントと、就任後16ヶ月にしてはじめて50%を割り込んだ)CNNより
【ニュース解説】
フィリピンとサウジアラビアの共通点
今回は、先週解説したサウジアラビアでの改革の旋風を思い出しながら、フィリピンの現状を考えてみます。
というのも、フィリピンにもサウジアラビアにも共通していることは、長年の汚職や不公正に対して、強いリーダーによる強権政治が必要かどうかの是非が問われているからです。
サウジアラビアは、皇太子モハメッド・ビン・サルマンに権力が集中する中で、王家も含む伏魔殿にメスがはいろうとしています。そして、フィリピンでは、逆らう者を射殺してでも麻薬と賄賂を撲滅するとしたドュテルテ大統領が話題になって、すでに1年以上が経過しています。
フィリピン人のルーツ
「フィリピンの人の顔をみるとね、いろいろなルーツがあることがわかるんです」ルソン島の中部にある町を仕事で訪れたとき、現地の友人がそうかたってくれました。
私の前に座る5人のフィリピン人。彼らの顔をみると、確かにそれぞれ異なったルーツがあることが確認できます。ヨーロッパ系、アメリカ系、中国や日本系などなど、多様な民族の血がそこに流れているのです。
フィリピン人の英語が堪能な背景
まず、フィリピンはに16世紀スペイン領になっています。ですから、今でも町や通りの名前などにその名残があるだけでなく、彼らがローカルに話す様々な言語の中にもスペイン語が混ざり込んだりしています。
そして、1898年にアメリカとスペインが戦争をしました。その戦争にアメリカが勝利した結果、アメリカはスペインからフィリピンを譲渡されます。アメリカの植民地となったことが、フィリピン人が他の地域より英語に堪能になった原因となりました。また、フィリピンが近代法を導入するときなどに、アメリカの法律が参考にされました。
フィリピンの戦い
そして、1941年のこと、アメリカと日本が戦争になると、フィリピンは激しい戦場になりました。スペインやアメリカ領の時代にも、現地のフィリピン人への差別や虐待は多くありました。独立運動もおき、その犠牲になったフィリピンの人も多くいました。そして残念なことに、フィリピン人に対する対応は、日本が数年間フリピンを占領したときも同様でした。日本の占領政策に不満を持った多くのフィリピン人が、アメリカが日本に反撃し、フィリピンに再上陸したときに、アメリカ側に協力しました。その結果、密林の中で、飢えや疫病で数えきれない日本兵が命を落とし、戦後になっても戦犯として裁きを受けたことはよく知られています。
独立後のフィリピン
戦後にフィリピンは独立しますが、貧困や政変が続き、国は荒廃します。そして多くのフィリピン人が家政婦などになって海外で働きました。
この経緯から、フィリピン人にはスペイン、アメリカ、そして日本や中国の血の混じった人が多くいるのです。
フィリピンの学校ではもちろん、こうした過去の悲劇について教えています。日本人が忘れている日本軍の占領時におきたことも教わっています。不思議と彼らはそのことを公の話題にはしません。でも、彼らに深く聞けば、歴史の授業で日本のことをどのように勉強したかがわかってきます。
そんなフィリピンが独立以来悩み続けてきた社会の混乱。特に蔓延するドラッグと賄賂を一挙に撲滅しようと、強硬策を実施したのがドュテルテ大統領でした。しかし彼の人気に今陰りがでているといわれます。裁判なしで、警察がどんどん容疑者を射殺し、刑務所に送り込んだことが、人権侵害と三権分立の原則に反すると攻撃されているのです。ある人によれば、スペインの占領政策の影響で、フィリピンには多くのカトリック信者がいることも大統領の人気の陰りの原因であるといいます。教会が大統領が麻薬撲滅政策の中で、人命を軽視した改革を断行していると批判しているからです。
長い歴史の重圧を克服し、国家を成長させることは並大抵のことではありません。フィリピンに限らず、中東やアフリカなど、近世から現代にかけて植民地として収奪された地域の多くが、その影響から抜け出し社会を発展させることができず、今でも政情不安や貧困に悩んでいることはいうまでもありません。
先週紹介したサウジアラビアのように、そうしたジレンマを解決するためには強権的な改革も必要なのかもしれません。そして、サウジアラビアでのニュースが流れたとき、真っ先に思い出したのが、ドュテルテ大統領の政策でした。サウジアラビアの場合も、女性に対する不公平など、様々な社会問題を解決するときに、つねに課題となったのが、イマームと呼ばれる宗教的な権威による抵抗でした。
フィリピンの場合、人権問題という課題を克服しながら、教会や司法との対立を乗り越えて改革を続行できるか、今大統領の手腕が問われているのです。
国が未来に向けて過去の汚泥を捨て去るとき、どこまで強権を行使できるのか。あるいはどこまで強いリーダーシップが許されるのか。
サウジアラビアとフィリピンのケースが、世界から注目されているのです。
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日英対訳
『海外メディアから読み解く世界情勢』
山久瀬洋二 (著)
IBCパブリッシング刊
海外ではトップニュースでありながら、日本国内ではあまり大きく報じられなかった時事問題の数々を日英対訳で。最近の時事英語で必須のキーワード、海外情勢の読み解き方もしっかり学べます。
山久瀬洋二の「海外ニュースの英語と文化背景・時事解説」・目次へ
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